忙しなく色々あるけれど

この夏、わたしはとてつもない距離を駆け抜けた。そして、よく物事が見えるようになったと思う。倒れずに走り続けるために、頭をしゃんとさせておくことができるようになったと思う。感情の水たまりに溺れそうなときは、無理に駆け抜けずに立ち止まって、ぐっと目を開いて橋を探したり、ゆっくり落ち着いて波がやむのを待てばいいだけだとわかった。他人様の力になりたくて必死で頭と心をつかっているうちにとんでもない距離を駆け抜けていたらしい、というのが事の実態で、夏が終わるころにはもう身体はぐったりしていて周りに心配もかけてしまったわけだが、お陰でとても頑丈で風通しのよい心に育ったことをすっかり秋になった今感じている。

夏が終わるころ、恋をした。はじめは心配で気に掛けていただけだったけれど、心に触れようとがんばっているうちに心をとても見せてしまっていたようで、気がついたときには目の端で姿を探してしまうようになっていた。わたしのことを頼りにしてもらえるようになりたくて気を配っていたはずが、知らないうちにたくさん目を配ってもらっていて、何度もそのひとに救われたし、一緒にいるだけでとても安堵した。

 

わたしのこれまでの恋は、のっけから報われない匂いのするような、対等に立たないと良い関係なんてはじまらないのに見上げる以外の視界をわたしは知らなくて、どんどんその角度が重力を以てわたしにのしかかりじぶんの価値を粉々にしてしまうようなものだったけれど、この3年間わたしは人生の回り道をしてひとつひとつじぶんを治しながら生きて来たので、心が立てる壊れたような鳴き声はてのひらで扱えるほどの音量にまで落ち着き、いまやわたしは明日や来月や来年のことをとても楽しみに思えるようになった。

そんな今落ちたこの恋はこれまでとは違って遥かに幸福な匂いがするし、それなりにしゃんとじぶんで立てるようになったこの風通しのよさのうえに成り立つこの恋を正解だと勘づいているじぶんがいる。すきなひとと息遣いを感じ取り合うように紡いでいる(つもりの。笑)今の関係をなにものにも代えがたく思うし、忙しさや勝手なさびしさやいじわるな気持ちからいつかとてもひどいことを言って相手を傷つけてしまうかもしれないことが、今言葉以前のささやかな慮り合いで成り立っているこのバランスをいつか崩してしまうかもしれない己の浅はかさが、とてもこわい。既に胸の深くが痛む。

 

今日ちょうど高校生の頃自身の恋を重ねながら聴いていたようなアルバムを聴き返していたら、当時の気持ちがとっくにきちんと過去になっていることが、今のわたしの心のほうがしなやかで頑丈であることがはっきりわかった、うれしかった。

でもそれって、逆に言うといまのこの気持ちもいつかは失くしてしまうかもしれないってことなんじゃないかと不安になった、だっていまのこのときめきと、胸の深くを痛ませている危惧とを忘れたときが、ほんとうに実際に、相手を傷つけてしまうときなんじゃないかと思うから。

それならば、今のわたしの気持ちを見失わないために、と思って、細かなやりとりをときどき言葉に起こしている。どうやって心を遣っていたかを、どんな気持ちをもらってきたかを、何度でも読み返せるように、ちゃんと憶えていられるように。心を重ねられるような歌*1も見つかった。

恋のことはわたしにはなにもわからないけれど、じぶんの内側を見てばかりいると相手を見失うのかもしれないし、ここら辺にしておきます。

 

 

*1:「雨天決行」「透明人間」どちらも東京事変、「ありあまる富椎名林檎

デザイン、って感じに友だちが塗ってくれた両手の爪がすこし剥げてしまったのを、隠すために塗った宇宙色のネイルホリックが乾ききらないのでこれを書いている。

BL919というこの色は両足の10の爪にも塗ってある。後輩の運転で何人かで倉敷に行ったとき、ひとりの女の子がわたしの爪先を見て、海ですね~と言ってくれた。壜のなかは宇宙だけど、均一に塗ると波のように光るのだ、この色は。

気が滅入りそうなとき、水のことを考えるようにしている。「人の感情は水のようにつながっているので、誰かに笑いかける人の感情は、見ているこちらの胸にも流れ込んでくる。」という一文があり、これは俳句同人『里』第175号の連載『成分表』での上田信治さんの言葉だ。水紋が、不穏を描かないように、わたしはすっと背筋を伸ばす。目で微笑む。考え事の尽きないバスの中や、好きな人の心まで指の届かない触れられない晩夏の夜に。そうするとなんだか楽になる。身軽になる。気持ちのいい水であろうとすることは、自身の泳ぐフォームもうつくしくするのかもしれない。たしかフォームがうつくしいほうが、呼吸も楽で遠くまでいけるはずだ。6年水泳を習ってくるしいフォームのクロールしかできるようにならなかったわたしが言うことなので、間違いかもしれないけど。

とっくに乾いたので、シャワーを浴びたら髪を切りにいく。色も染める。(世の男性は黒髪の乙女に目がないらしい。こんなことで髪色を暗くするのはとても癪だ。)

雨が降り出すまえ特有の、グルグルという雷の音がする。先の折れた傘を持ってバスで行く。

 

もう少しここに

夏に一緒に演奏する後輩をふたり呼んで、ひやむぎをした。

薬味をたくさん刻んで、肉と夏野菜の料理やだし巻き卵をテーブルにならべて。

ふたりはあまり自炊をしない子たちらしく、つくれるのはいいな~と言ってくれる。

べつにむずかしいことをしているわけじゃないんだけどな、と思いつつ、ふたりの言いたいことはなんとなくわかる。それに、美味しいとよろこばれるのはすごく嬉しい。

そのあとで、大鍋に冷やしておいた西瓜を切った。近所のスーパーだと2000円を超えるけれど、駅前の八百屋(果物が軒並み安い)でならひと玉680円だ。

うちはテレビがなくてしずかだから、種に気を取られながらも夢中で食べていると、シャクッという3人それぞれのたべる音ばかりするのが可笑しくって、途中で笑ってしまった。そして、こういう笑いは伝染する。果物を食べたり花火をしたり、庭や縁側があればいいのになともおもうけれど、大学生のひとりぐらしの部屋に若者ばかり集まって食べたり笑ったりしたこと、その些細な会話の断片とかを、ずいぶんと大人になってから不思議な気持ちで振り返ることができるならそれもいいなと思う。

 

次の日は7月最後の日だったから、友だちとサーティワンに行った。夕方に待ち合わせをして、ダブルを食べ終えた頃に話が盛り上がって、だんだんお腹が減って来たからコンビニでビビンバを買って、食べながらまだ話して。夜の22時半まで、かれこれ5時間も一緒にいた。大学生ばかりの下宿街だから、途中で通りがかるサークルの人たちが入れ代わり立ち代わりテーブルにやって来ては加わって、ゲストみたいだった。

できないことって緊張しちゃうし恐縮しちゃうよね、できないって思ってるせいで余計できなくなっちゃってるのも頭ではわかってるんだけど、わかってるからってうまくいかないよね、という話をした。いちばん長居していたゲストに、どうやったら緊張しないの、と訊いたけど、そもそも緊張した本番が少ないからなあと言われてしまう。

でもそれは、なんとなくわかる。わたしがレシピなしでもそれなりに美味しいものはつくれると思ってるのとおなじように、そんなにあがらずともソロを吹きこなしたり音楽を臆さずにできるひとというのもたくさんいて、おなじことでもつまずくひととすんなり通れるひとというのはいるのだ。なににひっかかるかがひとそれぞれなだけで、きっとどちらも些細なことなのだ、できるひとにとっては。

そして、その適性の差異自体に善悪や優劣はほんとうはないのだ、わたしたちに価値観や感情があるだけで。(こういうとき、三鷹で買った鉛筆に、「私たちは、生きていさえすればいいのよ。」という太宰の一節が刻まれているのをときどき思い出す。まあ彼は死んでしまったけれど。)

じぶんのできることの範囲内でなるたけ生きるほうが平穏なんだろうなといつも思う、思うけど、わたしはそれをおもしろくないと思ってしまうから、挑まずに生きるのは怖いと思ってしまうくらい弱いから、もうそれはしょうがないのだ。失敗したり恥かいたりしてもいいやと割り切って踏ん張ってみたり飛び込んでみたりしていくしかないし、失敗したり恥かいたりしても周りにとっての腫れ物やワレモノにならずに済むように日頃からよく笑って話して、親しみやすくいるのがせめてもの気遣いだ、と最近はおもっている。

 

わたしは不登校なんだけれど、サークルのおかげで人生のいろいろなことを考えたり気づいたり悩んだり得たり日々しているので、いま関わっているひとたちと食べているごはんや交わしている思いや言葉や、このじかんに、なにかとても意味があるような気がするので、もう少しここにいようと思っています。

 

 

減らないプリン

梅雨に入る前、友だちがつくってくれたバケツプリンを大人数でよるにひっくり返した。綺麗に皿のうえに着地したときは歓声が上がった。一斉に拍手まで起きた。きっと、こんなにうまくいくとは思ってなかったんだ、わたし以外の人たちも。新歓のためのプリンだったのだけれど、つついてもつついても減らなくて、上級生もたくさん食べた。生地がきちんとうっすらあまくて、カラメルも準備してあって、凄くおいしかった。

新歓の買い出しや当日の切り盛りはみんなでやったけれど、前々から買うものの量を計算したり、プリンをつくっておいたりしてくれたのはてっちゃんだ。うまくいくかわからない誰かの思い付きを、きちんと形になるように冷蔵庫で準備してくれたのだ。てっちゃんのそういうところは尊敬してもしたりない。若い女の子のテンション、みたいなものがなんとなく苦手でちょっと素っ気ない振りをするところ(それがむしろかわいかったりするのだ)も、それを冗談でからかうと一緒ににこにこしてくれるところも、ほんとうはすこしだけ引っ込み思案なのに周りのためにいつも勇敢なところも、たまらなく素敵だ。そしてもちろん、てっちゃんのことはみんな好きなのだ。(ほんとはわたしにみんなの本心なんてわかるわけないし、彼女からしたらそんな簡単な話ではないのだろうけれど、絵本の地の文のようにそう言い切ってしまいたくなる人望が、てっちゃんにはある。)

 

そういえば、英語では死ぬまでにしたいことリストのことをバケツリストというらしい。死ぬことを「バケツを蹴る」と表現することが元になっているそうなのだけれど、それじゃすべての死が自殺みたいだ…と引っ掛かっていたところでてっちゃんのバケツプリンを思い出したのだった。まぁでも、これがぜんぶ済んだらもうバケツを蹴ってもいいくらい満足よ(まあそんなことしないけどね)程度の比喩なのかもしれないな。

リストのすべてにチェックが付いてバケツを蹴るとき、あの美味しいバケツプリンが中から登場して完璧に着地すると素敵なのでは、と思ったけれど、死んでしまってはそのプリンを食べられないことに気づいた。全然素敵じゃない。バケツリストは成し遂げたことが増える一方でリストの項目そのものも増えていく、減らないプリンなのかもしれない。

たまごっちの話

夕方、干し終えて完成した白梅干しを近所の家庭料理やさんにおすそわけして、そのままお店でスープカレーを食べて、一緒に行ったともだちの家で『ゴールデンカムイ』を次々読み、そのまま寝てしまった。予定をさぼりたいくらい寝不足だったところを、ほんとうに根気よく起こし続けてもらえ、おかげで学校に間に合った。

 

学部、これまであまり顔を出して来なかったので他人より友だちもすくなくて、多少居心地はわるいのだけれど、先生たちも同級生も、おっ今日は来てるじゃ~ん、も~ほんとにお前は~、という感じで笑い飛ばしてくれるので、それがうれしい。学校来いよ!と言い続けてくれるのも、元気だった~?授業大丈夫なの‥?と心配してくれるのも、あんまり来てないのをネタに近況報告をやるとウケてくれるのも、なんてことない話を一緒にしてくれるのも、結構救われる。

ほかの人たちの近況報告を聞いていると、将来のことは何も決まっていないので、これからどうなるのか自分でも楽しみです。と言って笑いをとった男の子もいた。決まってなくても、どうなるかわかんなくても、それぞれ、前向きにやろうとしてるんだよね。安心、とかいうとぬるいかもしれないけれど、勇気もらえました。来てよかった。

 

今週のお題「ゲームの思い出」

母の妹が置いて上京したたまごっちを代わりに育てていたうちの母がわたしを妊娠し、出産が近付くと今度は彼女たちの母であるわたしの祖母がたまごっちの世話役になったのだが、わたしが遂に産まれるぞというその日、あたふたしていてすっかり世話を忘れていたものだから、そのたまごっちはお亡くなりになってしまったらしい。

そう、なんとわたしには、たまごっちの生まれ変わり説があるのだ。

雨は降るだけ

豪雨だった。外には一歩も出なかったけれど。

心配な人たちを心配したり、住んでいる地区の避難勧告が避難指示になったりしているうちに、ばんごはんを食べ忘れていた。夜中に起きだし湯船に水を貯めながら、炒め物をどんぶりにして食べた。油のしみた胡瓜、雨の味がする。

結局さびしいだけなのか、とねむたくなれない布団にうずくまってぽつりと思ったのだった。他人の無事を願っているようで、じぶんが寂しいだけなのだとしたら、そうだとしたら、とても傷つく。わたしは偽善がいちばん嫌いだ。己の浅はかさから偽善をいつ働くやもしれない点において、自分も嫌いだ。

 

大学に入って最初の年の数か月間、今とはちがう団体に入っていた。向上心の強い先輩方が多いひらけた環境だったけれど、「人のためになることを」「社会に貢献できる人材になろう」、当たり前のように交わされるそんな声に疲弊して、辞めてしまった。

それのなにが間違っているのか、と言われてしまうかもしれない。でもわたしには、どうしてそんなに簡単に、明るい言葉にしてしまえるのか、わからなかった。貢献したい場所や、改善したいものがある人々の集団ではなくて、そのうちの多くが具体的な問題意識を持たない新加入者たちに、人のためになることや社会に貢献できる人材になることの価値を訴えやる気を出させ、そうなるように仕向けて行く集団に見えた。その集団がやっていること、彼らがのちに語るようになる夢やプロジェクト自体は素晴らしいはずなのに、どうしても違和感が残った。

薄っぺらに思えてしまったのだ。だって、救われたかどうか決めていいのは、相手のほうなはずなのに。人のためになってますなんて、じぶんで語れることじゃないはずなのに。そんなに簡単なことじゃないはずなのに。どうしていいことしてますって言えるんだろう。ほんとはじぶんの成長や意欲のためでもあるはずなのに、どうしてひとのためって言いきれるんだろう。そこに引っ掛かりを持たずにはつらつとした笑顔で夢を語る彼らが、わたしにはなんだかこわかった。

 

上映中の『万引き家族』、公開初日含めて既に2回観に行った。是枝監督による同名の小説も購入した。(以下、映画の内容を含むので未視聴の方はご注意ください。)

母親から虐待された過去のある信代(安藤サクラ)は、被虐児のゆり(佐々木みゆ)に自身の幼少期を重ね見る。信代の善い母親的な振る舞いは、ゆりに正しい愛情(「叩かれるのはね……、りん(ゆりの別名)が悪いんじゃないんだよ…… 好きだから叩くんだよ、なんていうのはね、嘘なの 好きならね、こうするの」と言った信代がゆりを抱きしめるシーンは特に印象的だ。)を教えるが、それはあくまで結果論である。信代は自身がかつて浴びたのと同じ「産みたくて産んだんじゃない!」という言葉を放ったゆりの母親への反感、ひいては自身を虐待した実の母への憎しみの裏返しでゆりを育てると決めたに過ぎず、エゴを含まない愛情(なんてものそもそも完全には存在しえない気もするが)を持ってゆりに向き合ったとは言い難いからだ。けれど、信代との関わりの中で、ゆりが救われたのもまた事実だということは、ふたりでお風呂に入るシーンや、ゆりが本来の家族のもとに連れ戻された後の母親とのシーンからも明らかなのだ。

正しさを振りかざさないことの正しさが、社会的な正しさとはまったくべつなところにまったくべつなバランスで存在していること、それら2つの正しさは時に相反し後者が前者を抹殺してしまうことすらあることが、この映画の中にはひとつの現実として確かに描かているように思う。

 

群青日和」の歌詞、ある時まで意味があまりわからなかったのだけど、チャットモンチーの「愛捨てた」を聞いて以来ものすごく意味がわかるようになってしまった。愛とは、正しさをもって接することではなく、正しさがなにかは知りながら、それとはべつの言葉で向き合うことなのかもしれない。でもそうするとなんだか正しさって、なにかを切り捨てるためのものみたいで、なんだかな。まあそんなこといったら、何かを定義づけること自体切り捨てることに近いのだろうけれど。

 

やっと見つけたやってみたいことが人助けの様相をしていて、とても慎重になっている。救えるなどと思って向かってはならないのだ、ただただ真摯に、けれど尚且つ、事態が好転することには望みを持ち続けることだ。(こうやって慎重になるあたりわたしは、他人には愛されたい一方で、じぶんでは正しくありたいのかもしれない。そんな生き方、我が事ながら頑張れとしか言えない。)

 

雨は降るだけ、ただ降るだけ、そこがいい。

 

今週のお題「星に願いを」

短冊に書いたこととと胸の裡にあることがすべてです、叶いますように。

 

 

 

豪雨?

関東が梅雨明けしたと聞いた。桜前線みたいに南から順々に明けるものだと思っていたのによくわからないな、と言うと、後輩にも友だちにも頷かれた。西日本にしか住んだことのないわたしたち。もうしばらく雨は続くらしい。

雨が降っている日に家から出られなかったり、着る服が決まっていないだけで授業に行けなかったりしてしまう。宿題をきちんとやって出せたことなんて思えば小学生の頃からほとんどなくて、目の前の人の力になろうとすることと目の前の食材がだめになるまえに料理することくらいしか頑張れないや。

こういう日々を送っているひとのことをアルファベット4文字くらいで診断することもあるのはわかっているけれど、そういう話がしたいわけじゃない。どこに属すかとか、何に値するかとかを知ったり表明できないことが不安なんじゃなくて、わたしはどこに行ってもやっていける、だいじょうぶ、とじぶんで思えないことが不安なのだ。それはたぶん、わたしだけじゃなくて。

 

宇多田ヒカルの「初恋」、聴いてもぜんぜん歌えないから楽譜まで買ったんだけれど、同じアルバムの「Play A Love Song 」のほうが好きになってしまった。

「友達の心配や生い立ちのトラウマは

まだ続く僕たちの歴史のほんの注釈」

「僕の親がいつからああなのか知らないけど (大丈夫、大丈夫) 君と僕はこれからも成長するよ (大丈夫、大丈夫)」

「落ち着いてみようよ一旦 どうだってよくはないけど考え過ぎているかも 悲しい話はもうたくさん飯食って笑って寝よう」 

そうだよね、と思う。題名は前述のとおりだけど歌詞にでてくるのは 「Can we play a love song?」というフレーズで、言葉で答えなくてもいい問いに嬉しくなる。だって既に愛があるなら、あとは心がけて、やってみるに尽きると思うから。それが応えることになればいいなと思うから。(実際、この曲が既に「Play a love song」だ、という意味で題名がこうなのかしら。) 主語がIじゃなくてweなのも好きです、健康な優しさという感じがして。

 

どこに行ってもだいじょうぶ、とは今思えないけど、どこに行きたいかがはやくじぶんにじぶんでわかるとよいなと思う。なにかはじまるといいのにと思いつつまだなにもはじめられなくて、椎名林檎の「群青日和」を何度も聴いてしまう。

 

 

今週のお題「2018年上半期」

男の子くらい短く髪を切ってもらってすっきりしました。似合わないかもと思ってることもやってみたかったらやってみていいし、結果オーライってことも案外あるなと最近とくに感じます。こういうのは、愉しいですね。