湯気

おもろい本を読みました、西加奈子というひとの本で、賢い猫がでてきます。読みながら幾度か涙が出そうになったのは純粋な感嘆のためで、泣かせるために書かれてないのにそんな心地にさせてくれるようなジツリキのある、気持ちの良い作品でした、すごいなぁ西加奈子、すごいなぁ、と思いながら読みました。このひとが又吉の推す作家にして、椎名林檎が対談を望むお人か、なるほどなるほど。しばらくはこのひとの著作を漁って人生勉強としたいと思います。じゆうな時間のあるときに、湯船にあつくないお湯を張って、1ミリも読んでない本を持って入って、読み了えてからあがるのがすきです。

今日は初雪が降りました。中部地方へ出張中のすきなひとに返信をして(あちらも寒いとのこと)、ねるまえに生姜湯をと思って青い薬缶に水を溜めました。火にかけてから、思い立って玄関を開け、素足にヒールをつっかけてマンションの廊下に出ました。地面や電線に雪が積もっているのが見えました。冬が好きです、雪も愉しいです。こんな夜に煙草吸ったら美味しいやろうなぁ、まあいっか、と思いながら部屋に戻ると、薬缶の口から湯気が立ち始めていました。わたしはわたしの人生を、生き方を、結構好きだなと思って、そう思えた今日のことを、日記か何かに書いておきたいなと思いました。嬉しいことですね。

浴びる

おととい床で寝落ちたせいかぎっくり脇腹(腰ではないのだ)になっていた、もう一晩経った(今度はちゃんと布団で寝た)のだけれどまだぎっくりしたままだ

 

久しぶりにまたこうやって文章にしたくなって、それがやっぱりこういう鬱屈としたような疲れ果てたような気持ちの日であることを、芸がないなとおもう、書くことは過去にする行為だから、前を向いていることにもなる、ということにしといてもいいかな

 

もう何も考えたくないし何も知りたくない、というのは嘘で、じぶんのことを誰より真摯にとらえてその分傷つきながらもなんとかしようとしているのはじぶん自身でありじしんの両親であると思うのだけれどそれでも、わたしも親だからわかるけれど親御さんのためにももっと一生懸命がむしゃらにやりなさいよと言ってくる事情を半分も知らないような他人はいて、それとももしかして傷ついてないでとっとと嫌えばよかったのでしょうか彼女のこと、というのも嘘で、そもそも好きになれずにいたのだけれど。

 

部屋にいるときはとにかく音楽をかけているから、浴びているようなかたちになる、それは床にそのまま落ちる流れもあれば肩に弾ける飛沫もあるシャワーとおなじで、今は何の気なしに素通りしているフレーズもあれば耳に留まり心を洗う言葉もある

 

たとえば最近髪に沿い肩へ伝う水は、テイラースウィフトの「Delicate」とか

これが最善の選択というわけじゃない 

わたしの評判は今までにないほど地に落ちているから

ありのままのわたしを好きになってくれないと

お互い何の約束もできない

今はね そうでしょベイビー

でもとりあえず何か一杯飲ませてもらえるかしら

きのこ帝国の「ヒーローにはなれないけど」とか

死ぬよりも簡単だ

笑って 笑って

下手くそでもかまわない

笑って ねえ、笑ってよ

(中略)

誰にも負けたくないと

泣いた きみは泣いた

何者にもなれなくても

凛と立っていてくれよ

お互い何の約束もできなくても、絶望さえしなければ愛することはできるのかもしれないし、何者にもなれないとかそんなこと言ってないで凛としてたほうが何かにはなれる気もするし、と思いながら、身体に受けた水流はちゃんと、わたしの中の水脈になる。

 

もっと水流は増してつねに新鮮なきらめきを持つといいし、水脈は不意に深い音を鳴らすといい。なにが響くかわからないから浴びる、というので今はいいのかもしれない。

 

 

忙しなく色々あるけれど

この夏、わたしはとてつもない距離を駆け抜けた。そして、よく物事が見えるようになったと思う。倒れずに走り続けるために、頭をしゃんとさせておくことができるようになったと思う。感情の水たまりに溺れそうなときは、無理に駆け抜けずに立ち止まって、ぐっと目を開いて橋を探したり、ゆっくり落ち着いて波がやむのを待てばいいだけだとわかった。他人様の力になりたくて必死で頭と心をつかっているうちにとんでもない距離を駆け抜けていたらしい、というのが事の実態で、夏が終わるころにはもう身体はぐったりしていて周りに心配もかけてしまったわけだが、お陰でとても頑丈で風通しのよい心に育ったことをすっかり秋になった今感じている。

夏が終わるころ、恋をした。はじめは心配で気に掛けていただけだったけれど、心に触れようとがんばっているうちに心をとても見せてしまっていたようで、気がついたときには目の端で姿を探してしまうようになっていた。わたしのことを頼りにしてもらえるようになりたくて気を配っていたはずが、知らないうちにたくさん目を配ってもらっていて、何度もそのひとに救われたし、一緒にいるだけでとても安堵した。

 

わたしのこれまでの恋は、のっけから報われない匂いのするような、対等に立たないと良い関係なんてはじまらないのに見上げる以外の視界をわたしは知らなくて、どんどんその角度が重力を以てわたしにのしかかりじぶんの価値を粉々にしてしまうようなものだったけれど、この3年間わたしは人生の回り道をしてひとつひとつじぶんを治しながら生きて来たので、心が立てる壊れたような鳴き声はてのひらで扱えるほどの音量にまで落ち着き、いまやわたしは明日や来月や来年のことをとても楽しみに思えるようになった。

そんな今落ちたこの恋はこれまでとは違って遥かに幸福な匂いがするし、それなりにしゃんとじぶんで立てるようになったこの風通しのよさのうえに成り立つこの恋を正解だと勘づいているじぶんがいる。すきなひとと息遣いを感じ取り合うように紡いでいる(つもりの。笑)今の関係をなにものにも代えがたく思うし、忙しさや勝手なさびしさやいじわるな気持ちからいつかとてもひどいことを言って相手を傷つけてしまうかもしれないことが、今言葉以前のささやかな慮り合いで成り立っているこのバランスをいつか崩してしまうかもしれない己の浅はかさが、とてもこわい。既に胸の深くが痛む。

 

今日ちょうど高校生の頃自身の恋を重ねながら聴いていたようなアルバムを聴き返していたら、当時の気持ちがとっくにきちんと過去になっていることが、今のわたしの心のほうがしなやかで頑丈であることがはっきりわかった、うれしかった。

でもそれって、逆に言うといまのこの気持ちもいつかは失くしてしまうかもしれないってことなんじゃないかと不安になった、だっていまのこのときめきと、胸の深くを痛ませている危惧とを忘れたときが、ほんとうに実際に、相手を傷つけてしまうときなんじゃないかと思うから。

それならば、今のわたしの気持ちを見失わないために、と思って、細かなやりとりをときどき言葉に起こしている。どうやって心を遣っていたかを、どんな気持ちをもらってきたかを、何度でも読み返せるように、ちゃんと憶えていられるように。心を重ねられるような歌*1も見つかった。

恋のことはわたしにはなにもわからないけれど、じぶんの内側を見てばかりいると相手を見失うのかもしれないし、ここら辺にしておきます。

 

 

*1:「雨天決行」「透明人間」どちらも東京事変、「ありあまる富椎名林檎

デザイン、って感じに友だちが塗ってくれた両手の爪がすこし剥げてしまったのを、隠すために塗った宇宙色のネイルホリックが乾ききらないのでこれを書いている。

BL919というこの色は両足の10の爪にも塗ってある。後輩の運転で何人かで倉敷に行ったとき、ひとりの女の子がわたしの爪先を見て、海ですね~と言ってくれた。壜のなかは宇宙だけど、均一に塗ると波のように光るのだ、この色は。

気が滅入りそうなとき、水のことを考えるようにしている。「人の感情は水のようにつながっているので、誰かに笑いかける人の感情は、見ているこちらの胸にも流れ込んでくる。」という一文があり、これは俳句同人『里』第175号の連載『成分表』での上田信治さんの言葉だ。水紋が、不穏を描かないように、わたしはすっと背筋を伸ばす。目で微笑む。考え事の尽きないバスの中や、好きな人の心まで指の届かない触れられない晩夏の夜に。そうするとなんだか楽になる。身軽になる。気持ちのいい水であろうとすることは、自身の泳ぐフォームもうつくしくするのかもしれない。たしかフォームがうつくしいほうが、呼吸も楽で遠くまでいけるはずだ。6年水泳を習ってくるしいフォームのクロールしかできるようにならなかったわたしが言うことなので、間違いかもしれないけど。

とっくに乾いたので、シャワーを浴びたら髪を切りにいく。色も染める。(世の男性は黒髪の乙女に目がないらしい。こんなことで髪色を暗くするのはとても癪だ。)

雨が降り出すまえ特有の、グルグルという雷の音がする。先の折れた傘を持ってバスで行く。

 

もう少しここに

夏に一緒に演奏する後輩をふたり呼んで、ひやむぎをした。

薬味をたくさん刻んで、肉と夏野菜の料理やだし巻き卵をテーブルにならべて。

ふたりはあまり自炊をしない子たちらしく、つくれるのはいいな~と言ってくれる。

べつにむずかしいことをしているわけじゃないんだけどな、と思いつつ、ふたりの言いたいことはなんとなくわかる。それに、美味しいとよろこばれるのはすごく嬉しい。

そのあとで、大鍋に冷やしておいた西瓜を切った。近所のスーパーだと2000円を超えるけれど、駅前の八百屋(果物が軒並み安い)でならひと玉680円だ。

うちはテレビがなくてしずかだから、種に気を取られながらも夢中で食べていると、シャクッという3人それぞれのたべる音ばかりするのが可笑しくって、途中で笑ってしまった。そして、こういう笑いは伝染する。果物を食べたり花火をしたり、庭や縁側があればいいのになともおもうけれど、大学生のひとりぐらしの部屋に若者ばかり集まって食べたり笑ったりしたこと、その些細な会話の断片とかを、ずいぶんと大人になってから不思議な気持ちで振り返ることができるならそれもいいなと思う。

 

次の日は7月最後の日だったから、友だちとサーティワンに行った。夕方に待ち合わせをして、ダブルを食べ終えた頃に話が盛り上がって、だんだんお腹が減って来たからコンビニでビビンバを買って、食べながらまだ話して。夜の22時半まで、かれこれ5時間も一緒にいた。大学生ばかりの下宿街だから、途中で通りがかるサークルの人たちが入れ代わり立ち代わりテーブルにやって来ては加わって、ゲストみたいだった。

できないことって緊張しちゃうし恐縮しちゃうよね、できないって思ってるせいで余計できなくなっちゃってるのも頭ではわかってるんだけど、わかってるからってうまくいかないよね、という話をした。いちばん長居していたゲストに、どうやったら緊張しないの、と訊いたけど、そもそも緊張した本番が少ないからなあと言われてしまう。

でもそれは、なんとなくわかる。わたしがレシピなしでもそれなりに美味しいものはつくれると思ってるのとおなじように、そんなにあがらずともソロを吹きこなしたり音楽を臆さずにできるひとというのもたくさんいて、おなじことでもつまずくひととすんなり通れるひとというのはいるのだ。なににひっかかるかがひとそれぞれなだけで、きっとどちらも些細なことなのだ、できるひとにとっては。

そして、その適性の差異自体に善悪や優劣はほんとうはないのだ、わたしたちに価値観や感情があるだけで。(こういうとき、三鷹で買った鉛筆に、「私たちは、生きていさえすればいいのよ。」という太宰の一節が刻まれているのをときどき思い出す。まあ彼は死んでしまったけれど。)

じぶんのできることの範囲内でなるたけ生きるほうが平穏なんだろうなといつも思う、思うけど、わたしはそれをおもしろくないと思ってしまうから、挑まずに生きるのは怖いと思ってしまうくらい弱いから、もうそれはしょうがないのだ。失敗したり恥かいたりしてもいいやと割り切って踏ん張ってみたり飛び込んでみたりしていくしかないし、失敗したり恥かいたりしても周りにとっての腫れ物やワレモノにならずに済むように日頃からよく笑って話して、親しみやすくいるのがせめてもの気遣いだ、と最近はおもっている。

 

わたしは不登校なんだけれど、サークルのおかげで人生のいろいろなことを考えたり気づいたり悩んだり得たり日々しているので、いま関わっているひとたちと食べているごはんや交わしている思いや言葉や、このじかんに、なにかとても意味があるような気がするので、もう少しここにいようと思っています。

 

 

減らないプリン

梅雨に入る前、友だちがつくってくれたバケツプリンを大人数でよるにひっくり返した。綺麗に皿のうえに着地したときは歓声が上がった。一斉に拍手まで起きた。きっと、こんなにうまくいくとは思ってなかったんだ、わたし以外の人たちも。新歓のためのプリンだったのだけれど、つついてもつついても減らなくて、上級生もたくさん食べた。生地がきちんとうっすらあまくて、カラメルも準備してあって、凄くおいしかった。

新歓の買い出しや当日の切り盛りはみんなでやったけれど、前々から買うものの量を計算したり、プリンをつくっておいたりしてくれたのはてっちゃんだ。うまくいくかわからない誰かの思い付きを、きちんと形になるように冷蔵庫で準備してくれたのだ。てっちゃんのそういうところは尊敬してもしたりない。若い女の子のテンション、みたいなものがなんとなく苦手でちょっと素っ気ない振りをするところ(それがむしろかわいかったりするのだ)も、それを冗談でからかうと一緒ににこにこしてくれるところも、ほんとうはすこしだけ引っ込み思案なのに周りのためにいつも勇敢なところも、たまらなく素敵だ。そしてもちろん、てっちゃんのことはみんな好きなのだ。(ほんとはわたしにみんなの本心なんてわかるわけないし、彼女からしたらそんな簡単な話ではないのだろうけれど、絵本の地の文のようにそう言い切ってしまいたくなる人望が、てっちゃんにはある。)

 

そういえば、英語では死ぬまでにしたいことリストのことをバケツリストというらしい。死ぬことを「バケツを蹴る」と表現することが元になっているそうなのだけれど、それじゃすべての死が自殺みたいだ…と引っ掛かっていたところでてっちゃんのバケツプリンを思い出したのだった。まぁでも、これがぜんぶ済んだらもうバケツを蹴ってもいいくらい満足よ(まあそんなことしないけどね)程度の比喩なのかもしれないな。

リストのすべてにチェックが付いてバケツを蹴るとき、あの美味しいバケツプリンが中から登場して完璧に着地すると素敵なのでは、と思ったけれど、死んでしまってはそのプリンを食べられないことに気づいた。全然素敵じゃない。バケツリストは成し遂げたことが増える一方でリストの項目そのものも増えていく、減らないプリンなのかもしれない。

たまごっちの話

夕方、干し終えて完成した白梅干しを近所の家庭料理やさんにおすそわけして、そのままお店でスープカレーを食べて、一緒に行ったともだちの家で『ゴールデンカムイ』を次々読み、そのまま寝てしまった。予定をさぼりたいくらい寝不足だったところを、ほんとうに根気よく起こし続けてもらえ、おかげで学校に間に合った。

 

学部、これまであまり顔を出して来なかったので他人より友だちもすくなくて、多少居心地はわるいのだけれど、先生たちも同級生も、おっ今日は来てるじゃ~ん、も~ほんとにお前は~、という感じで笑い飛ばしてくれるので、それがうれしい。学校来いよ!と言い続けてくれるのも、元気だった~?授業大丈夫なの‥?と心配してくれるのも、あんまり来てないのをネタに近況報告をやるとウケてくれるのも、なんてことない話を一緒にしてくれるのも、結構救われる。

ほかの人たちの近況報告を聞いていると、将来のことは何も決まっていないので、これからどうなるのか自分でも楽しみです。と言って笑いをとった男の子もいた。決まってなくても、どうなるかわかんなくても、それぞれ、前向きにやろうとしてるんだよね。安心、とかいうとぬるいかもしれないけれど、勇気もらえました。来てよかった。

 

今週のお題「ゲームの思い出」

母の妹が置いて上京したたまごっちを代わりに育てていたうちの母がわたしを妊娠し、出産が近付くと今度は彼女たちの母であるわたしの祖母がたまごっちの世話役になったのだが、わたしが遂に産まれるぞというその日、あたふたしていてすっかり世話を忘れていたものだから、そのたまごっちはお亡くなりになってしまったらしい。

そう、なんとわたしには、たまごっちの生まれ変わり説があるのだ。