16時21分

1997年秋生まれ 暮らすぞ 

鉄棒と約束

「とにかくさ、お金は出すから、今週末にでも会いに来なよ。」

電話口でその言葉を反芻する無心のタイムラグが10秒ほどあってから、唐突にわっと泣けてきた。

いつもなら、電話が掛かってきて声を耳にした途端に安堵の涙を流していたと思うのだけれど、こうも参ってしまっていては、感情ひとつ動くのにも、よっこらしょと時間がかかるのかもしれなかった。

 

 

その日は朝9時頃、インターホンで目が覚めた。いつもはまだ寝ている時刻なのだが、クール便の再配達…?と思いなんとか起きて受話器をとると、エントランスからこんな声がした。「警察の者ですけど、心配したお友だちから通報があったので、ちょっとお話聞かせてください〜。」

気持ちがヒュッと冷えた。

…思い当たる節、めちゃくちゃあるぞ。

たしか昨晩、わたしはある友だちに対し、かなり心配をかける言動を取ってしまった挙句、くれた返信に既読をつける元気すらなく、放心しているうちに、泣き疲れて眠ってしまっていた。

音沙汰がないわたしのせいで友だちに、ほんとうに死んだのでは?と気を揉ませてしまったのだ。

近くの交番から来たという年配のお巡りさんに促されて、県警の人と電話をつなぐ。

「自殺をほのめかすような投稿をしたり、そのような言動をとりましたか?」

ほのめかすというか…と言いながら笑ってしまい、怪訝そうにされた。もちろん笑う場面ではなかったのだが、ほのめかすって言い回しが腑に落ちない。なんだかそんな言い方じゃ、わたしが死んでしまいそうだったことが、本気じゃないと言われているみたいだ。

「そちらにはご家族と一緒にお住まいですか?」

「いえ、ひとり暮らしです。」

「そうですか…。近くにご家族や親戚の方はいますか?」

勘弁してくれ、と思った。近くに家族や親戚がいることが却ってセーフティネットにならない人間もいるんですよ。そう言えなかったのは、家族や親戚との"世間的に好ましいとされる"関係性の正しさを突きつけられたようで暗澹たる気持ちになったからだ。そしてその世間的な好ましさや、県警の人の質問の正当性を前にして、わたしはというと、必死で黙り込んだ。そうしないと、泣き出してしまいそうだった。

らちが開かないと思われたのだろう、電話は短く終わり、万一のためにと名前と連絡先を訊かれ、なにかあったら交番に来てくださいねと声をかけてくれて、お巡りさんは帰っていった。

ひとりになった途端に、鋼のようにどっと全身が冷えた。緊張したせいかもしれなかった。

 

110番をしてくれた当の友だちが、貴重な会社の昼休憩をつかって、電話を掛けてくれた。

お弁当食べなくていいの、とおそるおそる訊くと、会社のロッカーで食べながら電話してるよ〜と教えてくれた。かたじけなかった。

「通報、迷惑かけてごめんねぇ。おうちに来た人、怖い人じゃなかった?心ないこと言われなかった?」

あぁ、優しい。心配や迷惑をかけているのは明らかにこちらなのに、なんでこんなに、と思う。

うまく返事ができずにいると、見かねた友だちはこう言った。

「とにかくさ、お金は出すから、今週末にでも会いに来なよ。迷惑かけちゃったから、大阪ステイをプレゼントにしま〜す!」

 

あとからあとから、涙が伝った。とにかくさ、会いに来なよ。あ〜、わたしはこの言葉がほしかったんだなと思った。こんなご時世にこんなこと、思ったり書いたりしちゃいけないかもしれないけど、だけど。誰にも抱きしめてもらわずにいるの、もう限界だったんだな。

けれど、そうは言っても、あっちは大阪、こっちは九州である。お金を出してもらうなんて申し訳ないし…そもそも、県を跨ぐ移動制限が解除されたとはいえ、このご時世で遠出をするなんて…。

そしてなにより、ちっともイメージできなかった。死ぬ、のほうに傾きすぎているのを、これ以上傾いてしまわないようにキープするのでせいいっぱいのわたしには、

死なないほう、生き続けるほうに焦点を合わせ、その先に続く日々を前提として「約束」をすることが、とても難しく感じられた。

けれど、だからこそ、しなければならないのだと、次第にわかった。それでわたしは、大阪に行く約束をした。行く、とかいって、連れ出してもらったのだが、ほんとうは。

 

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約束の金曜日。マスクをして、ふだんより重いリュックを背負って、新幹線に3時間ほど、車窓の曇天の猛々しさに見惚れているうちに、新大阪という場所に着いた。梅田、心斎橋、聞いたことあるぞ…などと思いながら地下鉄を2本乗り継ぐと、友だちの暮らす街の最寄駅だった。

両手をひろげて駆け寄ると抱きとめてくれたので、涙がとまらなくなった。友だちは仕事帰りだというのに終始にこにこしていて、駅の近くで6個300円のかわいらしいたこ焼きをふたりぶん買ってわたしを連れ帰り、一緒にたこ焼きをたべたあとには冷蔵庫の桃を剥いてくれた。

 

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その夜は魚市場にある24時開店の天ぷらや(足下いちめんにあさりのガラが放ってあった)に2時間並んで天丼を食べて眠り、つぎの日は映画館で「もののけ姫」と「風の谷のナウシカ」を観た。その翌日は午後に起き出し、ふたりで灯台まで散歩した。日々はあっという間で、お互いの仕事もなくあそべるのはその日が最後だった。

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久しぶりに食べたいね、大学生の頃はときどき行ったよね、という話になり、その日の晩ごはんは回転寿司に決まった。赤えび、穴子、鰹、ワンタンメン、ほっき貝、漬けごま真鯛、わらび餅。たらふく食べて、帰り道、夜9時過ぎのちいさな公園に寄り道をした。ブランコに揺られたり、野良猫に話しかけたりしていたが、わたしは不意に鉄棒のことが気になった。

鉄棒のことが気になった、という言い方は、たぶん不自然だ。鉄棒をしたくなった、とかいうほうが自然なのだろうが、そうは言えないのだ。なぜなら、わたしは鉄棒ができないのだ。

わたしは、鉄棒のまえまわりも、なわとびの前跳びも、まるでできない小学生だった。そしてそのまま、大人になった。大人になると、そんなことはできなくてもいじめられないし、友だちもたくさんできた。

けれど、大人になることは、思っていたよりもつらかった。生きていくには、お金が必要で、ほとんど不可抗力で死にたい気持ちになってしまう病気に苛まれていても、生来の障害を抱えていてできることとできないことの差が激しくても、そしてそれらを理由に大学を中退していても、健康な人がそうであるようにわたしも働かなければならず、健康な人ですらときに弱音を吐く"働く"ということが、そして生きていくということが、わたしにはとてもとても、負担に感じられていた。

小学校中学年の頃、世界には地球を○△□○回壊滅させられる数の核兵器があります。と習ったとき、クラッとした。この地球上に安全な場所などないのだ、と判り、端的にいうと絶望した。わたしが毎日何年も何年も食べて生きてきたものがほかの生命であると初めて明確に気付いた時も、ゾワっとした。なんの自覚もなく奪って来たのだと知り、背負いきれない、とこわくなった。

わたしは大人になるまでに、ミサイルが飛んできたり、戦争が起こったりして、じぶんは死ぬだろう、世界はそのくらい脆いだろうと思っていた。高校3年生まで、本気でそう思っていた。大人になったじぶん、を、想像したことすらなかった。できなかった。

けれど、現実はそうではなかった。わたしは死ななかった。生きている。なので、とても困った。これから一体、どう生きていけば?

 

やってみる?と、友だちが聞いた。

わたしはやってみたかったので、両腕に力を入れて、ぐっと足を浮かせた。

こ、こわい。地面が遠く感じる。あそこに向かって、頭から突っ込むなんて無理だ。手を離したら、落ちてしまうかもしれない。どうやって回るのかの仕組みもわからなければ、手を離さなずにいられる自信もなかった。

友だちに頼んで、何度もお手本を見せてもらった。途中で止まって見せたり、言葉で説明を挟んだりしながら、何回もまわって見せてくれた。けれど、何度見ても、どうやって後半の180度を描いているのかの仕組みがわからなかった。

わたしは、身体を持ち上げるところまでは行くものの、どうしてもそこでこわくなった。わからないことは、できないと思った。わからないものに身を委ねるのは、こわいとおもった。

こんなこと、できなくてもいいんだよ。友だちはそう言ってくれたけれど、

わたしにとってこれを諦めることは、これ以外をも諦めることのように思えてきていたので、絶対にできるようになりたかった。今やらなかったら、もうずっとできない気がした。

両腕に力を入れて、身体を持ち上げる。どうなるかはわからない。わからないけれど、わからないから、やってみるしかないのだ。

勇気を出して一気に体重を前にかけた。ぐわん、となにもわからなくなって、ドスン!と強い衝撃が来た。びっくりして、反射的にじわっと涙がでた。

「落ちたの?失敗した…?」

「ううん、できてたよ。低いところでやったからお尻を打っただけだよ。高いほうでなら打たずにできるんじゃない?」

高いほうへ移動して、もう一度身体を持ち上げる。今度はなんだか、あんまりこわくなくて、すこしわくわくする気がする。一気に前へ体重をかけて、ぐわん、すたっ。

気がつくと地面に足がついていた。なぜ回れるのか、なぜ手が離れないのかは、やってみてもわからなかった。けれど、とにかく、できたのだ。わたしは、とてもとても、うれしかった。もう何度でも回りたいとおもった。

 

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それからもう何日か居候させてもらった。泣きながらブタメンを食べたり、ろうそくの火でポテチを炙ってけらけら笑い合ったりした。(あたたかいポテチ、おいしいのでやってみてください。)

わたしは心のなかでは相変わらず、帰りたくない、働きたくない、いなくなりたい、とばかり思っていた。友だちが出勤している留守番の間に、いなくなる方法を、検索してしまう日もあったし、大体は、ひとりでぐったり寝ていた。鉄棒のことは、すごいことに思えるような気もすれば、みんなは当たり前に昔からできたことなのに、わたしは何を今更、恥ずかしい、と思えてしまう時も多くあった。

そうしているうちに、帰らなければならない日になった。明日は仕事なのだ。わたしは帰ることにした。駅で一緒にオムライスをたべて、カリモク60のガチャガチャを2回して、改札の前でさよならをした。お別れのハグをしてもらってわんわん泣いているわたしに、何番ホームに行けばいいか説明しようとして友だちが言った。

「まっすぐ行けよ、行けばわかるさ!」

笑わせてくれようとしたのかもしれない、けれど、ああ、ほんとうにそうだよなあと思って、目をくちゃくちゃにして泣きながら、改札を抜けて、何度も振り返って手を振りながらホームのほうへ歩き、ぐずぐず泣きながら階段を降りた。友だちは何度振り返っても、そこにいて、手を振り返してくれていた。

 

 

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【後書き】

ひとり暮らしの家に帰ってきて3日が経ちました。わたしは、死なない杯に出す文章には、ほんとうはなにか、もっと別のことを書くつもりでいました。

たとえば、近所にお気に入りの花屋があって、枝ものの桜や、黄色のチューリップや、しろいばらをそこで買って暮らしてきたこと。

たとえば、これまで鞄に入れて持ち歩いてきた愛読書(吉本ばななの「キッチン」や、市川春子の「25時のバカンス」)と、それを信号待ちや湯船で読み返してきた日々のこと。

あるいは、払えるあてもないローンを組んでトロンボーンを購入し、晴れていて元気がある日には公園で練習していること。なんとかこつこつ返済していること。

これらこそが、わたしが死なないでいるために、営んできたじぶんの暮らしだから。じぶんでじぶんを救うために、行ってきたことだったから。

だけど、そういったことだけを書くのは、なんとなくできませんでした。それだと、わたしの死なないは、どこかつくり話になってしまう気がしたのです。

 

ほんとうに死にたいとき、死んでしまいそうなとき、暮らしは機能しないように思えます。

花屋を訪れるどころか、倒れるのがこわくてシャワーさえ浴びられず、外に出られない日々、

鞄に愛読書を入れてあるのを覚えていても、ひらいて文字をなぞる気力すら残っていない日々、

食い扶持を稼ぎ続けられる保証もないのに、なんでローンなんて組んだのかと自責してしまう日々、

音楽を聴いたり、なにかを食べることすら、したくない日々、

死にたいと死なないの板挟みになって、泣けてきてしまう日々。

そんな日々に、わたしの頭に最後によぎるのは、いつも大体、遠くの街で暮らす友だちとの約束です。

「お正月にマニキュア贈ったの、あれはね、爪がかわいいと元気が出るかなとおもってのことだったんだよ〜 今度塗ったら写真送ってね!」

「秋にある演奏会2席予約しちゃった〜!一緒にホルストの1組聴きに行こうよ〜」

「お誕生日おめでとう、生まれてきてくれてありがとう。これからも、夢も約束も、たくさん叶えようね。」

 

ままならないことばかりだけれど、せめて存在していることが、いつか叶える約束の大前提になることを思うと、死なないでいようと思えたりします。

 

 

だいすきな友人各位へ

お元気ですか?

わたしは大阪で買ったたこ焼きスノーボール(…ならぬ、たこ焼きアオノリボールなのですが)を気に入って持ち歩いていて、勤務の休憩時間や寝る前のひとときにひっくり返しては遊んでいます。とても元気です。

次いつ会えるかわからないけれど、すこやかでいてね。そしてまた、最高なことをしようね。

わたしも死なないでいます。また会おうね。

 

 

死なない杯にお集まりのみなさんへ

見ず知らずのわたしのとても長い文章を、最後まで読んでくださってありがとうございます。

死なないでいるといろいろなことが起こるから、わたしたちはいつかどこかですれ違ったり、屋上のカウンターで隣の席になったりするかもしれませんね。もしいつかお会いしたときには、わたしのたこ焼きスノーボールをひっくり返して、降り注ぐアオノリを隣どうしで眺めたりしましょう、これもまた約束です。わたしも持ち歩くようにつとめるので、ぜひ声をかけてください。

 

 

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おしまい

 

 

※この文章は、西日暮里にある屋上さんが主催したコンペ「死なない杯」に応募し、いいな〜賞をいただきました。

 

 

 

 

 

しろいばら

泣きそうになりながら歩いて帰った。
まっすぐ帰宅したら、ひとりの部屋に横たわる夜の重たさに死んでしまう気がして、コンビニに寄ってアメリカンドックを買って歩きながら食べ、さらに遠回りして、インドカレー屋で夕飯をテイクアウトした。
昼間買っていちにち連れ回してしまったしろいばらが、夜の道路の光で松明みたいにひかった。夜も昼もなく泣いているけれど、花を買いに外に出たのは正解だったね。

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買って帰ったキーマ茄子カレーとガーリックナンを半分ずつ食べてすぐにロフトベッドのふとんにくるまる。ここは安全な場所。どんなに泣いて、いなくなりたくなっても、掛け布団の重みがそれを阻止してくれる気がする。かたじけない。

 

「それから、色んなこと、はるさんが挑戦したいこと、決断すること、そういう色んなこと、いつも応援してます。味方です。」

東京に暮らすだいすきな人からとどいた手紙はそう締めくくられていて、昼間に封を開けてから一日中、その言葉をお守りのように反芻して過ごした。味方です。味方です。味方です。紛うことなき愛で、間違いなくうれしい。

うれしいのに、立ち行かない考え事と照らし合わせては、じっと考え込んでしまいもする。挑戦したいことはあっても、先天的な障害や完治の見込めない疾患を理由にそれすら困難だとしたら?そして決断することが、人生を諦めざるを得ないことと同義だったとしたら?ベッドからテーブルのしろいばらが見えるけれど、裸眼ではそれがばらだとわからない。不安でいっぱいだよ。

 

 

最高の石

最高の石を拾ったので見てほしい。

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友だちに、石こロマンチストという二つ名を持っている子がいて、わたしはみ〜ちゃんと呼んでいる。石こロマンチストは、彼女が、彼女自身の愛情の力で、手に入れた名前だ。中学生のときに吹奏楽部で一緒だった彼女とは、もう10年来の付き合いになる。

 

わたしは昔から、とにかく音楽がすきだった。幼稚園に入る前からタンバリンを叩き続け、小学校に上がるとピアノを習いたいとねだり(お金がかかるからと言って習わせてもらえなかった)、高学年になるとずっと入ると心に決めていた音楽委員会に入って、アコーディオンで校歌を演奏した。5年生のとき、暴力を受けている生徒がいることを先生に言いつけたのがクラス中に広まっていじめられたり無視されたりしていたけれど、わたしはそんな幼稚な出来事よりも、地元の中学校に合唱部も演劇部もないことのほうがずっと憂鬱だった。その後、父の転勤の都合で引越し、小学校の最後の1年は県外の学校で過ごすことになった。そこで出会ったのが金管バンド部だった。

見学の帰りに、まだ引っ越したばかりで心細い思いをしていたわたしを、家まで送ってくれた女の子がいた。その子は、トロンボーンという楽器を吹いていた。それでわたしも、その楽器をえらんだ。先生はいい加減な人で怒りっぽくて、けれどちっとも恐くはなかった。吹き方を教えられる人が誰もいなくて、がさがさの音がなんとか出るようになるまで半年かかった。

 

2010年の春、わたしは受験をして、知っている人のひとりもいない中高一貫校に進学した。小学校6年生の夏休み、金管バンド部に遊びにきたOGの先輩が、うちの吹奏楽部たのしいよって話してくれたときの笑顔を忘れられなくて、必死で勉強したのだ。だからわたしは、迷わずその部活に入部した。そして迷わず、まだちっとも吹けないのにすっかりだいすきになっていたトロンボーンをえらんだ。

そこには優しい人もいたけど、意地悪な人もたくさんいた。それは先輩だけでなく、先生もそうだった。わたしは3年間、先輩も先生も、正しくて絶対なのだと信じ続けた、どんな言葉の暴力を浴びても、ほとんど手をあげられそうな雰囲気で詰め寄られても。わたしが出来ていないから、怒らせてしまうのだ。なにもかも、わたしの努力不足のせいなのだ。でも、どんなに頑張っても楽譜は読めなくて、どんなに頑張ってもスライドを見様見真似で動かすことができなかった。そしてどんなに頑張っても出来るようにならないのは、つまりまだ頑張っていないからなのだと思い込んだ。ASDという発達障害で視覚情報を処理する力が先天的に弱いと診断され、努力不足でなかったことを知るのは、6年も後のことだ。

叱るではなく怒鳴るの人たちから、たくさんの呪いのことばを浴びて、わたしはみるみる息ができなくなった。そして、息ができないのだから当然、ただでさえ人よりできない楽器が、今度は物理的に吹けなくなった。安心して息ができないと、楽器なんて吹けないのだ。楽器が吹けなくなったわたしは、このままだと死んでしまうぞ、と直感的におもって、高等部1年生の春、部活を辞めた。そして、国語科の先生たちに誘われるまま、得意な言葉の世界に逃げた。俳句や詩や文章で何度も賞をとり、全校生徒のまえで表彰されたりもしたけれど、あ〜 ほんとは音楽やりたかったのになって、ずっとそのことばかり考えていた。文化祭が来るたびに、ステージの上のみんなが眩くて、胸がずきずきした。

 

2015年、高校生活も終わりという頃に、わたしはうつを発症した。5歳のとき、いじめられているのを親に信じてもらえなくて心を閉ざして以来幕を開けていた、わたしの人生における危なっかしすぎるジェンガが、ついに決壊したのだ。そしてそのとき、物心ついてから初めて人に弱音を吐いたわたしを受け止めてくれたのが、中学のときおなじ部活でフルートを吹いていたみ〜ちゃんだった。彼女はわたしの病気のことを聞いてくれて、とても心配してくれたのだけれど、わたしはうまく甘えることができなかった。そして彼女もわたし自身も、お医者ではないのでなにもどうにもできなくて、虚しかった。

 

大学に入って、わたしはサークルでふたたび吹奏楽をはじめた。そして楽器は、凝りもせずトロンボーンをえらんだ。やりたかったのだ、どうしてももう一度。頑張ってもやっぱり楽譜はあまり読めなくて、頑張ってもやっぱり見様見真似でスライドを動かす基礎練についていけなくて、その上トラウマのせいで誰かにじぶんの音を聴かれるのがこわくてろくすっぽ自主練もできなかったから、勿論うまくなんかならなかったし、合奏で足を引っ張って落ち込んだりもしたのだけれど、でも今度は、ちゃんと愉しかった。音楽は楽しいのが基本なんだよって、好きなのがはじまりなんだよって、体現してくれる人がたくさんいた。勇気がいちばん大事なんだよって、寄り添ってくれる指導者がいた。そして困ったときに、話を聞いてくれる友だちもできた。わたしは少しずつ、心を開くことを覚えた、大声で話したり笑うことも、できるようになった。

 

せっかくAO入試で進学した大学の単位を、うつで落とし続けたまま迎えようとしていた2019年春、最高学年まで続けたサークルを引退して、わたしは途方に暮れていた。大学卒業を目指せる状態の心身でもなければ、辞めて戻りたいと思えるような実家も持たなかった。そんなとき、音楽を学ぶために進学した東京から、広島の片田舎まで会いに来てくれたのがみ〜ちゃんだった。失踪したい、と弱音を吐いたわたしは、記憶にある限りでは初めて、人に抱きしめてもらって泣いた。そんなこと言うなよ、と彼女はわたしを守ろうとしてくれた。

 

それから丸1年がたった。意を決して大学を辞めて、親に本音を言って実家も捨てたわたしは、ローンを組んでじぶんの楽器を購入した。もちろんトロンボーンだ。

そして3月、混乱のこのご時世で進路のことがなにもできなくなった今、自粛に甘んじてじぶんの人生を肥やすのがいいのだろうなとおもって、すきなことをして過ごそうとしたときに、音楽、とおもった。でも、音楽、とおもうとき、鼓膜に鋭いことばが反響する感覚があった。あ、まだだめなんだな、これもしかして、一生だめなのかな、そうおもうと、とてもかなしくなった。なんで辛かったそのときに、わたしはわたしを助けてあげられなかったんだろう、そう思うと、毎日涙がとまらなかった。

 

おとといの晩、わたしはみ〜ちゃんに頼んで、電話をしてもらった。ひとりでは無理だ、とわかったから。わたしは初めて、トラウマの話をした。彼女は夜通し話を聴いてくれて、彼らのことを怒ってくれて、そして約束してくれた。せめてこれから、自由に音楽を、ときには一緒に、一生かけてやっていこうね、と。

もしいつか、入院して家族以外面会禁止ですとかになったら、わたしは家族なんかより彼女に会わせてくれと憤ると思うし、彼女がもし万が一いつかそうなったとき、会いに行けないのは、とてもとても辛いと思う。

 

そんな彼女は、石とは家族に次いで長い付き合いになると話す。彼女が愛しているのは、河原や海辺に生息している、言ってしまえばよくある石だ。よくある石なんだけれど、石を「石」という記号として一概に捉えていない彼女にとっては、そのひとつひとつがちがう魅力を持っている。誰かのすきなものを否定する権利なんて、だれにもないんだよ。彼女がいつかそう話してくれたこと、いじめられて育ったわたしには新鮮だったその言葉を、ときどき思い出す。

 

 

最高の石を拾ったので見てほしい。

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友だちに、石こロマンチストという二つ名を持っている子がいて、わたしはみ〜ちゃんと呼んでいる。石こロマンチストは、彼女が、彼女自身の愛情の力で、手に入れた名前だ。中学生のときに吹奏楽部で一緒だった彼女とは、もう10年来の付き合いになる。

わたしは、彼女のことを、家族なんかよりずっと、家族だとおもっている。誰かのすきなものを否定する権利なんて、ほんとうに、だれにもない。

 

泳ぐ

大学を中退する前、通おう通おうと思いながらうまく通えずにいた長い季節に大学の書店で一目惚れして購入していた論文集「声と文学 拡張する身体の誘惑 (平凡社 2017年)」を、きょう思い立って辞書を引いて読みながら、学ぶと遠くへと行けることをひさしぶりに実感した。

わたしはここに座っているままだけれど、わたしの脳内は知の海を駆け巡っているのだ、海のなかはわからないこと(そしていつかわかるようになるかもしれないこと)ばかりで、はっきり言ってとても興奮する。

 

高3の時うつを罹患してから文章が頭に入ってこなくなり、読書すら満足にできなくなった。模試すら解けない授業にもついていけない中で得意分野を生かして奇跡的にAO入試で合格し進学できたものの、わけもわからず涙があふれて板書が読めず不眠や希死念慮で家から出られずという状態に陥り、数年間粘ったのちにわたしは大学をやむなく中退した。
病気をして大学にうまく通えなかったことも、だいすきな言葉や表現をのめり込んで研究できなかったことも、とても悔しかった。

健康な範囲の悩みごとだけを抱えて当たり前に大学へ通い愚痴をこぼしながらも単位を取ることができている(ように見えてしまう)同世代の人々を目の当たりにし、そしてとりわけ、学びたいことに突き進んでいる未来ある(ように見えてしまう)人々と話していると、どんなに彼や彼女たちのことを友人として愛していて応援する気持ちがあっても、心の内では耳を塞いでしまいたいと思っていたように思う。じぶんがみじめでつらかったのだ。
わたしも論文を読んだり卒論を書いたり、知に足を踏み入れてみたかった。学ぶことをたのしみたかった。そしてわたしにもそれはできたはずだったのに、健康を失った途端にその機会を逃した。服薬を続けても希死念慮が影を潜める気配はなく、健康に戻れる確証も自信もどこにもなかった。誰も悪くなかったけれど、わたしもなにか悪いことをした罰としてこんなことになったわけではないはずで、すべてがとてもかなしかった。

 

努力をして4年間大学に通い、いま卒論に追われている同級生の多くはこの春大学を卒業しそして社会に出る。
わたしは大学を卒業することとと将来をその先へもうひとコマ進めることが叶わなかった代りに、大卒でなくとも一生困ることなく生きていけるよう手に職をつけようと5年制の和裁学院へ入学したばかりだ。週6日1日8時間、縫って縫っての毎日がはじまる。言い換えれば当分の間、学問としての知を専門とする場所からは遠のいてしまうことになる。 
けれど、知ろうとし続けることも思考し続けることも、なんら諦める必要がないということ、ひいては、じぶんの人生をみじめだと悲観する必要はないということが、きょうその論文集を読んでいてよくわかった。やりようはまだあるのだ。わたしはこれからはじまる5年間もアンテナを張り続ける、学ぼうとし続ける。5年後手に職をつけたら数年働いてお金を貯めて、そして今度こそやりたかったことをやる。そのときいちばん学びたいことを、それができる最善の環境の門扉を叩いて学ぶ。
ぜったいに怠らない、ぜったいに遠くまで行く。きっと心身を壊さず順当に大学へ通えていた世界線のわたしよりも、悔しい思いをしたいまのわたしのほうがその分遠くまで行けるはずだ。待ってろ、とか言えないけど、学問、待ってすらもらえないところも気持ちがいい。待ってろよ〜!

触れなくとも

抱きしめられることが愛されることなのだと思い込んでいたので、恋人という関係性やセックスという行為にいつからか憧れに近い感情を持っていた。恋人関係こそ至上の信頼関係だと思い込んでいた。

身近なひとに甘えたり頼ったりできずに育ち、同級生にいじめられたり部活の先輩からパワハラを受けたりしていた結果としての思い込みによる思考で、いわゆる愛着障害だとの自覚はあったが、とはいえじぶんでその状態を脱することができるわけでもなく。

 

その感情に体の仕組みやセックスという営みそのものへの好奇心が加わり、先日アルバイトに応募して面接を受けた。若いうちに人生経験として水商売をやってみるのもいいな、とはかねてからおもっていたので、不安というよりもむしろ色めき立った気持ちでいたのだが、採用されて男の人とも女の人とも寝てみた結果、好奇心が満たされたとともに、恋愛とか性欲とかのことがかなりどうでもよくなってしまった。

そして、友人関係の有り難さが身にしみた。身体に触れなくても、抱き合ってひとつにならなくても、愛というのはたしかに存在していて、抱きたい/抱かれたいと思わないからこそ相手のことがとても大切だったり、抱きたい/抱かれたいと思われていないからこそ安堵することができたりもするということを、ようやく身をもって知ることができた。これがわかっていなかったばかりに大切な友人に、抱いてくれないのはわたしに魅力がないからなのかと訊いて困らせたことのあるわたしにとって、この気づきはおおきな進歩だった。わたしはちゃんと愛されているんだなぁ。ともだち、大事にしようとおもった。

 

そんなわけですっかり満足したのと、やはりリスクの伴う業界でもあるなぁという危機感からそのバイトはすぐに辞めた。

翌朝事務所を出て、辞めたい気持ちをきちんと伝えられたじぶんを労おうとミスタードーナツで朝食をとった。4万もらってもモーニングにワンコインしかつかえないじぶんの金銭感覚にほっとする。ドーナツやパイを食べながら、性的に消費されないことの解放感に浸った。帰りに駅の本屋ですきな歌人の恋愛的な詩集をぱらぱらと読んだが、ちっともぴんと来ず、愛着障害もろとも恋愛感情が消滅したのを実感し、けろっとした気持ちになった。なんていうか、すっかり大丈夫になったなぁ。触(ふ)れない愛のあることを、わかるようになれたことがうれしくって、ずっとほしかったkemioの著作を買って帰った。

歩いてゆける距離の海

引っ越しをして2週間経った。昼過ぎに工事のひとが来て、Wi-Fiをつないでくれた。親切にプリンターの設定方法までおしえてくれたのがうれしくって、昨日斜向かいの八百屋さんでちょっと高かった柿を帰るときに渡した。

 

ひとり暮らしだ。人生2度めの。いちばんうれしいのはわたしだけのキッチン。一口コンロだけれどそれでもうれしい、ちゃんとガスのコンロだから炎が見られる。友人のいない街とあってめったに来客もないので食卓に切り花を飾ったりはしていないけれど、うちには林檎もバナナも柿もある。先週は柿でなくてキュウイだった。くだものはつやつやとうつくしい。

暖房はまだ一度もつかっていなくて、さむいときは友人の編んでくれたアフガン編みの靴下をはいたり、片手鍋にお湯を沸かして紅茶(どこのスーパーでもいちばん安く売ってあるような)を淹れたりしている。それで凌げるくらいにはあたたかくまだ気温も2ケタあるのだが、港町なので潮風が吹きつける。前髪なんて気にしていては前にすすめない。

 

学校のはじまる1月まではたいそうのんびりとしたもので、引っ越し後の手続きのほかには家事くらいしかやることがない。おもいきって脱毛サロンでローンを組み、林檎班*1に入会し、近所のお肉屋さんでスタンプカードをつくってもらった。火・木・土は鶏肉と豚肉が割引。

 

たくさんのことを乗り越えたなぁとおもう、たとえばつい先月までは両親との関係性(宇多田ヒカルの歌詞を拝借するならば生い立ちのトラウマというやつだ)に疲弊していたし、今年の春先までは親友におもわず失踪したいとこぼすくらいそのことで追い詰められていた。そしてこの日記の最初の投稿をした昨年梅雨入りの頃に比べれば、ずいぶん縦になっていられるようになった。食べ終えた食器を洗うのも洗濯を干すのも掃除機をかけるのもこまめにできるようになったし、恋人いなくてもともだちがいるから人生大丈夫だなとおもえるようになった。新調して丸眼鏡にしたおかげでコンタクト姿でないじぶんをかわいいとおもえるようになったし、徒歩30分弱の海辺まで歩いてマジックアワーを拝みにゆけるくらい、じぶんひとりでもたのしく生きていられるようになった。

 

夜がきてベッドに上がり毛布にくるまると、まだまだ泣けてきてしまったりもするのだけれど、そんなときはこう考えればいいのだ。たとえばこの調子で生きていれば、脱毛が終わってつるつるの腋になることができるし、椎名林檎の愛好家歴いまはたった3日めだけれど、そのうち愛好家歴15年を名乗ることだってできるかもしれない。そしてそのあいだに行きつけの肉屋ではカードにたくさんのスタンプが貯まり、何度も500円券がつかえるだろう。この街で暮らす5年のあいだにだいすきな友人の結婚式に呼んでもらえる可能性だってあるのだし、学校に熱心に通って手に職をつけてしまえば、住んでみたかった東日本に暮らしてみることも、貯金をしてイタリアへドゥオモを見にいくこともできるだろう。そしてそうやって生きていれば、わたしのたいせつな10年来の友人が、いつか50年来の友人になる日も来るかもしれない。

 

暮らすぞ。何度泣くことになるとしても。

 

*1:椎名林檎のオフィシャル會員サロン