薬缶

1997年初秋生まれ。小学校の国語で習った空飛ぶ薬缶の詩が好きです。

生きるための毒を生きるために毟る

2月も終わる頃、郵便受を覗いたら不動産会社からガス代の督促が来ていた。8月から払い溜めていたみたいで、記載されていた額は3万を超えていた。月末までに支払わないとお風呂のお湯が出なくなりますよとの通達だったので、28日に郵便局のATMで手続きをした。心許ない残高を見たらなんだか泣きたくなって、もう観念してうちへ帰ろうと思った。お金のことでまで悩むくらいなら、実家に帰ってしまったほうがいい。今のわたしにじぶんで稼いだ金で食べて行くような余裕はないのだ。

 

絶望さえしなければどうにでもなると思うので、とか、生きてさえいれば生きてはいけると思うから、とか、わたしの近況を訊いてくれたひとによく話すのだけれど、よく言うよな、家では泣いてばかりの癖に。それでも、芽のでたじゃがいもをそろそろどうにかしなきゃなとは覚えていて、足りない食材を買うために歩き、帰ってまた泣いて泣き止めば、その芽を毟って、晩ご飯をつくって食べる。生き続けるくらいの理性はあるよ、わかっているもの、死んでしまいたくなるのを賢明な判断と呼んでしまった瞬間にすべてが終わってしまうのは。

 

ロウラブという曲を最近よく聴く、King Gnu  という人たちがべつな名前でバンドをやっていたらしい頃の。変わったヘアバンドをした常田さんがこちらを向いて歌う。「留まってゆきなよ。」「居場所はここにしかないでしょ?」

どういうこと、と思う。留まってゆきなよって、それはもしかして、この世にってこと?

「留まってゆきなよ。」

「居場所はここにしかないでしょ?」

無粋なあらゆる総てを壊してしまいたい

”発作”

けれど、夢みたいな花に、手を伸ばした。

結局はほら 造花だと知ってる。

それでも身を、委ねたなら

そうだね、壊してしまいたいよ、壊したいわけなんかじゃ、ないんだけどね。

造花だと揶揄することすら不安で、性懲りもなく泣いてしまう。人間向いてないなって思うけれど、人間向いてないってなんなんだ。ストランドビーストにも樹にもなれっこないこと、いい加減認めてしまえればいいのに。

やり方を教えてほしい。身を委ねるって、どうすればいいの。

 

youtu.be

凍死しないために冬眠があるとして:春

 できるだけ単純にならないと死んでしまうな、死を正解だなんて微塵もおもっていないけれど、意味なんか考えていたら死んでしまう。

 たとえ死をえらんだところで、取り返しがつかないところまで行ってから後悔するのは目に見えている。血を流して慄きながら、あるいは凍えながら、なんにせよ泣きじゃくって衰弱するじぶんがありありと浮かぶ。愛されたかっただけなのにおかしいなって、生きているだけで会うことが叶ったはずの愛おしいひとたちを思い浮かべながら、絶命する。

 さすがに自覚してるよ、こんなことを望んでいるわけじゃないことくらい。かといって生きていくほどのなにも、と言いかけてやめる。考えごとや決断をしないほうがいいターン、というのが人生にはあって、わたしはもう何年もそこにいるらしい。どうやったら抜け出せるのかはよくわからないけれど、たぶんもっと誰かと話して泣いたりしないといけないんだろうなと思う、どうもひとりでは出られないルールのようなので。抜け出た先になにがあるのか全く思い描けずにいるのも、出られずにいる理由のような気はしている。凍死しないために冬眠があるのだとすれば今わたしはそこにいて、春のことはまるで知らないのだ。知らないものは恐ろしい、実際が、あれほど柔らかな季節だとしても。それに季節とは巡るものであるだろうから、呼んでくる術がわたしにはないのだ、心待ちには、しているつもりなのだけれど。

 

 死にたいようなひとは世界への、あるいは自身への、期待値が高かったひとたちなんじゃないかと最近おもう。それはなんだか、可愛げがあることのような気がする。だからほら、もうちょっと、笑ったりするといいのかもしれないよね、せっかく可愛いのだったら、笑いたいときには思い切り。

 

 春の蚊のような虫が耳元へ飛んで来て、やむをえずじぶんの耳を叩いた。死にたさなんてその程度のことに過ぎないんだとわかっている。ゲートをひとつ抜ける。

彩なす獣

3月の最初の8時間は友人と電話をして過ごした、なんて書くと幾分かフラットなように聞こえるけれど、日付が変わるころにはじめた電話が夜を明けて朝に眠るまで続いた、というのが実際である。

 

いつ何を落としてしまうかわからないじぶんにも、掬うべきを掬うことで自身を救うことができるように今これを書いているのだけれど、言葉にしてしまうことが惜しいな。そのくらい代え難く、嬉しかったのだ。

 

2月のあの晩、追い詰められたわたしの身勝手な逃避に、怒って泣いてくれていたこと、それでも黙って抱きしめてくれたこと。抱きしめたのは思うが故にだったということを、わからず屋のわたしのために、言葉にしてまで教えてくれたこと。そうやって、真新しい3月のよる、電話越しに、あたたかな涙をゆるしてくれたこと。笑ってくれたこと。

 

すっかり空の明るくなった頃、「3月のライオン」のテーマになっている諺*1をふたりして調べた。百獣の王とはいえ、ハグしたら大層あたたかいと、そう思いませんか、去る子羊を待つまでもなく。あんなにふくふくで*2大柄な猫…なんて生易しいものじゃないにしても、強さあっての優しさを思わせる獣の名を戴いたのが、この季節ならば。

 

*1:March comes in like a lion and goes out like a lamb

*2:3月のライオン」作中では、よく育ってふくよかな猫などをこう形容する。

ゆめ

あれこれと予定を立てながら夜中まで起きていたら唐突に動画が送られてきた。とても親しいけれど向こうから連絡があることは少ないシャイな後輩からだったので少し驚いて開くと、ディズニーのキャラクターパペットたちが画面の向こうからわたしに手を振っていた。名前を何度も何度も呼んでくれていた。そうだった、彼女たちはこの春休み、仲良し5人で夢の国旅行をしてくると言っていたんだった。友だちとなんて、夜に一緒に居てあそんでいるだけで楽しいもんね、シーで1日あそんできて明日にランドを控え、ふだんはにこにこと穏やかな彼女たちの盛り上がりがいつも以上なのも納得だ。それにしてもかわいいな、こんな夜中に動画なんて送ってくれちゃって。それもぬいぐるみであそびながら、わたしの名前を呼んでいるだけの。笑い声をたくさん拾ってしまって賑やかな動画を観ながら、もしも絶望して今日死んでいたら生きてこの動画を観ることはなかったんだなと思って、不思議な気持ちになった。いないところで思ってもらえていることや、じぶんの話をしてもらえていることって、ふつうわからないけれど、時々こうやって当人にそれが伝わることがある。こういうのは、嬉しい。思ったより愛されてるもんだな~と思わせてくれるから。他人を救うなんてことは誰にもできなくて、いつだってじぶんを救えるのはじぶん自身しかいないんだけど、他人にも繋ぎとめることはできるんだろうなと最近おもう。わたしが自ら死ぬことで、妹の人生に陰を落としてしまうことが、これまで友だちや後輩にかけてきた励ましの言葉や約束が嘘になってしまうことが、わたしには堪えられない。周りの人がそうやって、存在やことばで、わたしを繋ぎとめてくれているんだとおもう。こうして繋がれていることはなんだかくるしくて、でも有難いし嬉しいよ。こんなことで死にたくなっているのも、こんなことで繋ぎ留められている気になれるのも、なんだかとても人間らしいことのような気がするよね。

タイムラグ

泡で染める白髪染めを買って、ロゼブラウンという色に髪を染めた。洗い流すついでにお風呂を済ませて、これから死ぬってひとはたぶんわざわざ髪を染めたりしないよな~とか思いながらドライヤーで乾かした。華やかなピンクとかいうからちょっとわくわくしてたけど、思ってたより明るくはならなかったな。

 

昨日まで10年来の友人が一緒にいてくれた。帰るのはさびしいけどね、と言われたときなんだかびっくりした。さびしいのはわたしのほうだけのような気がしていたから。夜行バスではるばる東京から会いに来てもらっておいて、好かれてないとでも思っていたのだろうかわたしは。いや、そういうわけじゃないんだけど、でもいつも、人の気持ちなんて全然わからないな。大切に思われている、とかそういうの、全然わからない。ハグをしてもらってそれをはじめて実感するくらいには、わたしはわからず屋だ。愛されていないと思っているならそれはそれできっと傲慢で、でもそんなつもりはないからゆるしてほしいなとも思ってしまう。愛されていることを後から気づいてひどく驚いてしまうわたしのことを、愛すべきタイムラグだと笑ってほしい。そしてこんなわたしにもわかるように抱きしめてほしい。それから、わたしを大切に思っていない人は、まちがえて肩に触れたりもしないでほしい。わたしには全然わからないから、ばかみたいに信じたりしてしまうから。

 

昼間、カラオケで米津玄師の「街」という歌をうたっていたら、ぼろぼろと泣けてきてしまってびっくりした。わたしには、じぶんの気持ちもぜんぜんわからない。何気なく聞いていた歌の歌詞に心動かされてやっと無理をしていたことに気づけたり、大切な人に抱きしめてもらって涙がでてはじめていま私は辛いのかもしれないと思えたり、そんなことばかりだ。

死ぬより失踪するほうが幾分かましだと思っていたんだけど、友人にはちょっとびっくりされてしまった。そうだよね、アズミハルコみたいに、幸せになれるとは限らないよね、映画じゃないんだから。逃げ疲れて眠る家灯りをどこにも求められなくて、それでも会いたい人に会うためには生きているしかないという、ただそれだけで、文字通り泣く泣く暮らしています。今 懐かしい朝の為*1、と言えるのでしょうか、いつかはこれも。

 

 

*1:米津玄師「街」の歌詞より引用。

朱に交われば

お金がないのにマックでおやつを買って、お金がないのに友人とお好み焼きを食べに行った。ご飯に行く際、翌朝の準備があるので今晩は泊めてあげられないからね、と前もって言われたので、努めていい返事(「はい」ってやつ)をした。日頃どれだけ甘えているのかつくづく思い知らされる、困らせたくはないのに。

 

夜が空けるまで東京の友人と5時間近く電話をした。「PSYCHO-PASS」というアニメを勧められたので、おもしろがって「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメを紹介したのだが、両作品の脚本を手掛けているのが図らずもおなじ人物だったので驚いた。彼は虚淵玄といって、鬱展開のスペシャリストとの異名まであるらしい。

 

今日は机の上を片付けながら、勧められたアニメを1期の14話まで観た。とても面白い。作中世界には個々人の心的状態や性格傾向を数値化したPSYCHO-PASSという値が存在し、健常な一般市民は統計的にこの数値が低いが、社会に適合しづらい(犯罪を犯しうる傾向にある)人々は規定値よりも数値が高くなることがわかっている。数値を日常的に計測し、必要に応じてストレスへの対処やメンタルケアを施すことで、値が正常なグラデーション(色相)の域を出ないように管理することが社会常識とされていて、それにより社会の安全が守られているのだ。作中では数値が上昇してしまうことを「色相が濁る」と形容するのだが、これはまどマギにおいてソウルジェム(魔法少女の魂であり、力を使うことや自棄になることなどのストレスで濁る)が「濁る」と形容されることと、とても似ていると思った。ひょっとしたら、これは虚淵さんの価値観や描こうとしているテーマのひとつ、…なのかどうかはわからないけれど、いち視聴者がそう関連付けて、鑑賞および考察する余地と自由はあるように感じた。

 

濁る、というのは、不安になることと似ているのかもしれない。友だちの家に付いて帰って寝落ちしてしまうのも、遠くの友人に電話をかけてしまうのも、濁っているからなんだと思う、こわいのだ、ひとりの夜が。不安なのだ。

甘えるのがわるいことじゃない、のは、ひとりで抱え込んではますます濁るだけだから、なんだろうけど、結局最後はじぶんでしかじぶんを救えない、というのもまた真実であり。澄んでいる、ということがどういうことなのかちゃんと考えてしっかりしなくてはな、と思わされる、常守朱監視官の瞳を見ていると。

 

掬うことー「きらきらひかる」江國香織

1年以上まえに、友人たちが企画してくれた雑誌(いまは休航中)に「こぼれる」というタイトルで書いたエッセイを読み返していたら、きちんと傷つきながら本を読んでいるじぶんの姿に嬉しくなりました。以下その本文です。

相手がだれだったのかはわからないけれど、そのとき向かいに座っていた誰かに、あなたにとっていちばんの恋愛小説はなにかと訊かれた。わたしはあおいソファに座っていて、ベランダからの日差しにレースのカーテンが揺れていた。ほんのすこし間が空いて、江國香織の『きらきらひかる』かなぁと答えた。

 わたしはその朝とても驚いた。それは前述のことが夢で、そしてわたしにとって江國香織の『きらきらひかる』が未読同然の一冊だったからだ。この夢は日々に取っ掛かりを残し、それから幾日とたたないうちにわたしは近所の古本屋でその本を購入した。一冊の本を一晩で読んでしまうという経験をわたしは五、六年振りにし、そしてそのあいだじゅう涙した。

 たぶん人には、それぞれ抱えているものがある。志とか、憧れとか、葛藤とか、後ろめたさとか、孤独とか、呼んでしまえばそれまでの、だからこそ、名前をつけてしまえないようなものが。

 先日、その名前もつけてしまえないようなわたしの抱えているあるものを、あるひとに打ち明けたく思った。わたしは選択肢ふたつの間で迷っていて、その人に一緒になって考えてもらおうと思ったのだ。話すと感情的になってしまって説明しきれないだろうから、手紙を書こうとした。書くことはすらすらと思いついた。いま何に困っていて、どういう状況にあるのかということ、これからどうしたいと思っているのかということ、二つ思い浮かんでいる選択肢のこと。それらは頭の中でみるみる文章になって、でも次第にこんがらがってきてしまった。言葉を尽くせば尽くすほど、これだけではじぶんの聴いてほしいことの真意や背景が伝わらないように思われた。かといって、それらを端的に伝える過不足のない表現も見当たらなかった。そこでわたしは、打ち明けることそのものを断念した。誤解されて的外れなことを言われなければならないくらいならば、何も言いたくはないと思った。もしそうなってしまえば、かならずわたしは傷つくから。相手が親しい人であればあるほどに。結局わたしはひとりで選択し、そのとき選んだほうが今のわたしの日々になった。

 じぶんのことをじぶんで決めるくらいあたりまえだ、と言う人があるかもしれない。わたしなら傷ついても人に話すのに逃げたのかと咎める人があるかもしれない。けれど、つまりはそういうことなのだ。あなたにとってのその常識と、わたしのそのときの感情や思考とは、おなじ秤にかけられないのだ。たとえ無理やりにおなじ秤にかけたとしても、ただしい答えなど得られないのだ。生来わたしとあなたとは、苦しみの喜びのかなしみの度合いを測る、おなじ単位を持ちえないのだ。それぞれが別々の生き物であること、言葉は所詮言葉に過ぎないこと、そのことに絶えずぶつかりながらそれでも誰か達と生きていかざるを得ないわたしたちにとって、傷つける、踏みにじるということが、いかに簡単で、取り返しがつかないか。決めつけてしまうことが本来どれほど身勝手なことか。いちいち立ち止まることが難しい日々であるからこそ、憶えていなくてはならない気がするのだ。少なくとも臆病なわたしは、片時も忘れてしまいたくない。

 言葉にしてしまった瞬間に失われるなにかを、殺してしまわないように息をする。息があうと嬉しく、すれ違うとかなしい。そのすれ違いのかなしさにすら微笑みを向けながら、寄り添ったり見つめたりする、そのことをすら優しさと呼んでしまわずに、あぁ、いまがきらきらひかるだなぁ、とただそう思っていたい。

 

最近はあまり熱心に読書をしているわけでもないのですが、元気になったら読みたい本や、論文を検索したいしらべごとがいくつもあります。図書館に籠れるくらいの体力が、はやく戻って来るとよいなと思います。