薬缶

1997年初秋生まれ。小学校の国語で習った空飛ぶ薬缶の詩が好きです。

ゆめ

あれこれと予定を立てながら夜中まで起きていたら唐突に動画が送られてきた。とても親しいけれど向こうから連絡があることは少ないシャイな後輩からだったので少し驚いて開くと、ディズニーのキャラクターパペットたちが画面の向こうからわたしに手を振っていた。名前を何度も何度も呼んでくれていた。そうだった、彼女たちはこの春休み、仲良し5人で夢の国旅行をしてくると言っていたんだった。友だちとなんて、夜に一緒に居てあそんでいるだけで楽しいもんね、シーで1日あそんできて明日にランドを控え、ふだんはにこにこと穏やかな彼女たちの盛り上がりがいつも以上なのも納得だ。それにしてもかわいいな、こんな夜中に動画なんて送ってくれちゃって。それもぬいぐるみであそびながら、わたしの名前を呼んでいるだけの。笑い声をたくさん拾ってしまって賑やかな動画を観ながら、もしも絶望して今日死んでいたら生きてこの動画を観ることはなかったんだなと思って、不思議な気持ちになった。いないところで思ってもらえていることや、じぶんの話をしてもらえていることって、ふつうわからないけれど、時々こうやって当人にそれが伝わることがある。こういうのは、嬉しい。思ったより愛されてるもんだな~と思わせてくれるから。他人を救うなんてことは誰にもできなくて、いつだってじぶんを救えるのはじぶん自身しかいないんだけど、他人にも繋ぎとめることはできるんだろうなと最近おもう。わたしが自ら死ぬことで、妹の人生に陰を落としてしまうことが、これまで友だちや後輩にかけてきた励ましの言葉や約束が嘘になってしまうことが、わたしには堪えられない。周りの人がそうやって、存在やことばで、わたしを繋ぎとめてくれているんだとおもう。こうして繋がれていることはなんだかくるしくて、でも有難いし嬉しいよ。こんなことで死にたくなっているのも、こんなことで繋ぎ留められている気になれるのも、なんだかとても人間らしいことのような気がするよね。

タイムラグ

泡で染める白髪染めを買って、ロゼブラウンという色に髪を染めた。洗い流すついでにお風呂を済ませて、これから死ぬってひとはたぶんわざわざ髪を染めたりしないよな~とか思いながらドライヤーで乾かした。華やかなピンクとかいうからちょっとわくわくしてたけど、思ってたより明るくはならなかったな。

 

昨日まで10年来の友人が一緒にいてくれた。帰るのはさびしいけどね、と言われたときなんだかびっくりした。さびしいのはわたしのほうだけのような気がしていたから。夜行バスではるばる東京から会いに来てもらっておいて、好かれてないとでも思っていたのだろうかわたしは。いや、そういうわけじゃないんだけど、でもいつも、人の気持ちなんて全然わからないな。大切に思われている、とかそういうの、全然わからない。ハグをしてもらってそれをはじめて実感するくらいには、わたしはわからず屋だ。愛されていないと思っているならそれはそれできっと傲慢で、でもそんなつもりはないからゆるしてほしいなとも思ってしまう。愛されていることを後から気づいてひどく驚いてしまうわたしのことを、愛すべきタイムラグだと笑ってほしい。そしてこんなわたしにもわかるように抱きしめてほしい。それから、わたしを大切に思っていない人は、まちがえて肩に触れたりもしないでほしい。わたしには全然わからないから、ばかみたいに信じたりしてしまうから。

 

昼間、カラオケで米津玄師の「街」という歌をうたっていたら、ぼろぼろと泣けてきてしまってびっくりした。わたしには、じぶんの気持ちもぜんぜんわからない。何気なく聞いていた歌の歌詞に心動かされてやっと無理をしていたことに気づけたり、大切な人に抱きしめてもらって涙がでてはじめていま私は辛いのかもしれないと思えたり、そんなことばかりだ。

死ぬより失踪するほうが幾分かましだと思っていたんだけど、友人にはちょっとびっくりされてしまった。そうだよね、アズミハルコみたいに、幸せになれるとは限らないよね、映画じゃないんだから。逃げ疲れて眠る家灯りをどこにも求められなくて、それでも会いたい人に会うためには生きているしかないという、ただそれだけで、文字通り泣く泣く暮らしています。今 懐かしい朝の為*1、と言えるのでしょうか、いつかはこれも。

 

 

*1:米津玄師「街」の歌詞より引用。

湯気

おもろい本を読みました、西加奈子というひとの本で、賢い猫がでてきます。読みながら幾度か涙が出そうになったのは純粋な感嘆のためで、泣かせるために書かれてないのにそんな心地にさせてくれるようなジツリキのある、気持ちの良い作品でした、すごいなぁ西加奈子、すごいなぁ、と思いながら読みました。このひとが又吉の推す作家にして、椎名林檎が対談を望むお人か、なるほどなるほど。しばらくはこのひとの著作を漁って人生勉強としたいと思います。じゆうな時間のあるときに、湯船にあつくないお湯を張って、1ミリも読んでない本を持って入って、読み了えてからあがるのがすきです。

今日は初雪が降りました。ちがう街で夜を過ごす人へ返信をして(あちらも寒いとのこと)、ねるまえに生姜湯をと思って青い薬缶に水を溜めました。火にかけてから、思い立って玄関を開け、素足にヒールをつっかけてマンションの廊下に出ました。地面や電線に雪が積もっているのが見えました。冬が好きです、雪も愉しいです。こんな夜に煙草吸ったら美味しいやろうなぁ、まあいっか、と思いながら部屋に戻ると、薬缶の口から湯気が立ち始めていました。わたしはわたしの人生を、生き方を、結構好きだなと思って、そう思えた今日のことを、日記か何かに書いておきたいなと思いました。嬉しいことですね。

たまごっちの話

夕方、干し終えて完成した白梅干しを近所の家庭料理やさんにおすそわけして、そのままお店でスープカレーを食べて、一緒に行ったともだちの家で『ゴールデンカムイ』を次々読み、そのまま寝てしまった。予定をさぼりたいくらい寝不足だったところを、ほんとうに根気よく起こし続けてもらえ、おかげで学校に間に合った。

 

学部、これまであまり顔を出して来なかったので他人より友だちもすくなくて、多少居心地はわるいのだけれど、先生たちも同級生も、おっ今日は来てるじゃ~ん、も~ほんとにお前は~、という感じで笑い飛ばしてくれるので、それがうれしい。学校来いよ!と言い続けてくれるのも、元気だった~?授業大丈夫なの‥?と心配してくれるのも、あんまり来てないのをネタに近況報告をやるとウケてくれるのも、なんてことない話を一緒にしてくれるのも、結構救われる。

ほかの人たちの近況報告を聞いていると、将来のことは何も決まっていないので、これからどうなるのか自分でも楽しみです。と言って笑いをとった男の子もいた。決まってなくても、どうなるかわかんなくても、それぞれ、前向きにやろうとしてるんだよね。安心、とかいうとぬるいかもしれないけれど、勇気もらえました。来てよかった。

 

今週のお題「ゲームの思い出」

母の妹が置いて上京したたまごっちを代わりに育てていたうちの母がわたしを妊娠し、出産が近付くと今度は彼女たちの母であるわたしの祖母がたまごっちの世話役になったのだが、わたしが遂に産まれるぞというその日、あたふたしていてすっかり世話を忘れていたものだから、そのたまごっちはお亡くなりになってしまったらしい。

そう、なんとわたしには、たまごっちの生まれ変わり説があるのだ。

豪雨?

関東が梅雨明けしたと聞いた。桜前線みたいに南から順々に明けるものだと思っていたのによくわからないな、と言うと、後輩にも友だちにも頷かれた。西日本にしか住んだことのないわたしたち。もうしばらく雨は続くらしい。

雨が降っている日に家から出られなかったり、着る服が決まっていないだけで授業に行けなかったりしてしまう。宿題をきちんとやって出せたことなんて思えば小学生の頃からほとんどなくて、目の前の人の力になろうとすることと目の前の食材がだめになるまえに料理することくらいしか頑張れないや。

こういう日々を送っているひとのことをアルファベット4文字くらいで診断することもあるのはわかっているけれど、そういう話がしたいわけじゃない。どこに属すかとか、何に値するかとかを知ったり表明できないことが不安なんじゃなくて、わたしはどこに行ってもやっていける、だいじょうぶ、とじぶんで思えないことが不安なのだ。それはたぶん、わたしだけじゃなくて。

 

宇多田ヒカルの「初恋」、聴いてもぜんぜん歌えないから楽譜まで買ったんだけれど、同じアルバムの「Play A Love Song 」のほうが好きになってしまった。

「友達の心配や生い立ちのトラウマは

まだ続く僕たちの歴史のほんの注釈」

「僕の親がいつからああなのか知らないけど (大丈夫、大丈夫) 君と僕はこれからも成長するよ (大丈夫、大丈夫)」

「落ち着いてみようよ一旦 どうだってよくはないけど考え過ぎているかも 悲しい話はもうたくさん飯食って笑って寝よう」 

そうだよね、と思う。題名は前述のとおりだけど歌詞にでてくるのは 「Can we play a love song?」というフレーズで、言葉で答えなくてもいい問いに嬉しくなる。だって既に愛があるなら、あとは心がけて、やってみるに尽きると思うから。それが応えることになればいいなと思うから。(実際、この曲が既に「Play a love song」だ、という意味で題名がこうなのかしら。) 主語がIじゃなくてweなのも好きです、健康な優しさという感じがして。

 

どこに行ってもだいじょうぶ、とは今思えないけど、どこに行きたいかがはやくじぶんにじぶんでわかるとよいなと思う。なにかはじまるといいのにと思いつつまだなにもはじめられなくて、椎名林檎の「群青日和」を何度も聴いてしまう。

 

 

今週のお題「2018年上半期」

男の子くらい短く髪を切ってもらってすっきりしました。似合わないかもと思ってることもやってみたかったらやってみていいし、結果オーライってことも案外あるなと最近とくに感じます。こういうのは、愉しいですね。

あじさい

縦になれない日のじぶんも愛したほうがいい人生になるとは思うけれど、縦になれないあいだにもすすんでしまう時間のこと、その間うしなってしまう有意義なもののことを思うと、安心はちっともできない。たとえば大学生のわたしは単位と卒業がたいへんなのだけど、たいへんだと思うことそのものがたいへんさを何倍にもしてしまっている。好きだったひとに似ていると言われたこともあるけれど、これじゃいつも不安でいっぱいのぼのぼのみたいだ。

 

生活にリズムがほしくて、あ~、寮みたいなところに住めばよかったなぁと思う。少年自然の家に合宿で行ったときみたいに、じぶんでしおりをつくっちゃえばいいのかな。何時起床とか、何時消灯とか。門限とか。

 

でも、梅雨晴れのよるに夜道を漕いで、知らない家の濃くあざやかなあじさいに目をうばわれたりすることや、おなか空いてるんだけどすき屋行かない?という友だちからの誘いに いいよ~と返すよるの10時が、しみじみと日常で、ばっさり捨ててしまえない。

 

こんな風に、二十歳になってもだめなところはたくさんあって、だけど少しだけ強くなったそこに目を向けてがんばっていったほうが、たぶんいいよね。

すくなくとも、わたしは絶望をしなくなったし。伸びしろはもう少し、埋めていける気がする。数年後これを飲むとき、当時のじぶんのこと、人生のことをどう振り返るわたしになっているかしら、と思いながら、昨日は人生初の梅仕事をしました。『海街diary』みたいに、だいじにだいじにこの梅酒は飲みたいな。にがにがしい気持ちにならずに二十歳のときの梅酒を飲んでもらうためには、いまのわたしががんばらんとですよね。そろそろ縦になれそうだぞ、いってきます。

 

 

今週のお題「チョコミント

ずっと食わずぎらいしていて、一昨年サーティワンで再チャレンジしてみたけどだめで、もう諦めていたら、こないだ友だちにひとくちもらったセブンのアイスが美味しかった。ずっとチョコミントは歯磨き粉味党のにんげんだったんだけど、美味しいと思ってはじめてわかった。チョコミントが歯磨き粉味なんじゃなくて、歯磨き粉がミント味なんだ。そりゃそうか。