雨は降るだけ

豪雨だった。外には一歩も出なかったけれど。

心配な人たちを心配したり、住んでいる地区の避難勧告が避難指示になったりしているうちに、ばんごはんを食べ忘れていた。夜中に起きだし湯船に水を貯めながら、炒め物をどんぶりにして食べた。油のしみた胡瓜、雨の味がする。

結局さびしいだけなのか、とねむたくなれない布団にうずくまってぽつりと思ったのだった。他人の無事を願っているようで、じぶんが寂しいだけなのだとしたら、そうだとしたら、とても傷つく。わたしは偽善がいちばん嫌いだ。己の浅はかさから偽善をいつ働くやもしれない点において、自分も嫌いだ。

 

大学に入って最初の年の数か月間、今とはちがう団体に入っていた。向上心の強い先輩方が多いひらけた環境だったけれど、「人のためになることを」「社会に貢献できる人材になろう」、当たり前のように交わされるそんな声に疲弊して、辞めてしまった。

それのなにが間違っているのか、と言われてしまうかもしれない。でもわたしには、どうしてそんなに簡単に、明るい言葉にしてしまえるのか、わからなかった。貢献したい場所や、改善したいものがある人々の集団ではなくて、そのうちの多くが具体的な問題意識を持たない新加入者たちに、人のためになることや社会に貢献できる人材になることの価値を訴えやる気を出させ、そうなるように仕向けて行く集団に見えた。その集団がやっていること、彼らがのちに語るようになる夢やプロジェクト自体は素晴らしいはずなのに、どうしても違和感が残った。

薄っぺらに思えてしまったのだ。だって、救われたかどうか決めていいのは、相手のほうなはずなのに。人のためになってますなんて、じぶんで語れることじゃないはずなのに。そんなに簡単なことじゃないはずなのに。どうしていいことしてますって言えるんだろう。ほんとはじぶんの成長や意欲のためでもあるはずなのに、どうしてひとのためって言いきれるんだろう。そこに引っ掛かりを持たずにはつらつとした笑顔で夢を語る彼らが、わたしにはなんだかこわかった。

 

上映中の『万引き家族』、公開初日含めて既に2回観に行った。是枝監督による同名の小説も購入した。(以下、映画の内容を含むので未視聴の方はご注意ください。)

母親から虐待された過去のある信代(安藤サクラ)は、被虐児のゆり(佐々木みゆ)に自身の幼少期を重ね見る。信代の善い母親的な振る舞いは、ゆりに正しい愛情(「叩かれるのはね……、りん(ゆりの別名)が悪いんじゃないんだよ…… 好きだから叩くんだよ、なんていうのはね、嘘なの 好きならね、こうするの」と言った信代がゆりを抱きしめるシーンは特に印象的だ。)を教えるが、それはあくまで結果論である。信代は自身がかつて浴びたのと同じ「産みたくて産んだんじゃない!」という言葉を放ったゆりの母親への反感、ひいては自身を虐待した実の母への憎しみの裏返しでゆりを育てると決めたに過ぎず、エゴを含まない愛情(なんてものそもそも完全には存在しえない気もするが)を持ってゆりに向き合ったとは言い難いからだ。けれど、信代との関わりの中で、ゆりが救われたのもまた事実だということは、ふたりでお風呂に入るシーンや、ゆりが本来の家族のもとに連れ戻された後の母親とのシーンからも明らかなのだ。

正しさを振りかざさないことの正しさが、社会的な正しさとはまったくべつなところにまったくべつなバランスで存在していること、それら2つの正しさは時に相反し後者が前者を抹殺してしまうことすらあることが、この映画の中にはひとつの現実として確かに描かているように思う。

 

群青日和」の歌詞、ある時まで意味があまりわからなかったのだけど、チャットモンチーの「愛捨てた」を聞いて以来ものすごく意味がわかるようになってしまった。愛とは、正しさをもって接することではなく、正しさがなにかは知りながら、それとはべつの言葉で向き合うことなのかもしれない。でもそうするとなんだか正しさって、なにかを切り捨てるためのものみたいで、なんだかな。まあそんなこといったら、何かを定義づけること自体切り捨てることに近いのだろうけれど。

 

やっと見つけたやってみたいことが人助けの様相をしていて、とても慎重になっている。救えるなどと思って向かってはならないのだ、ただただ真摯に、けれど尚且つ、事態が好転することには望みを持ち続けることだ。(こうやって慎重になるあたりわたしは、他人には愛されたい一方で、じぶんでは正しくありたいのかもしれない。そんな生き方、我が事ながら頑張れとしか言えない。)

 

雨は降るだけ、ただ降るだけ、そこがいい。

 

今週のお題「星に願いを」

短冊に書いたこととと胸の裡にあることがすべてです、叶いますように。