もう少しここに

夏に一緒に演奏する後輩をふたり呼んで、ひやむぎをした。

薬味をたくさん刻んで、肉と夏野菜の料理やだし巻き卵をテーブルにならべて。

ふたりはあまり自炊をしない子たちらしく、つくれるのはいいな~と言ってくれる。

べつにむずかしいことをしているわけじゃないんだけどな、と思いつつ、ふたりの言いたいことはなんとなくわかる。それに、美味しいとよろこばれるのはすごく嬉しい。

そのあとで、大鍋に冷やしておいた西瓜を切った。近所のスーパーだと2000円を超えるけれど、駅前の八百屋(果物が軒並み安い)でならひと玉680円だ。

うちはテレビがなくてしずかだから、種に気を取られながらも夢中で食べていると、シャクッという3人それぞれのたべる音ばかりするのが可笑しくって、途中で笑ってしまった。そして、こういう笑いは伝染する。果物を食べたり花火をしたり、庭や縁側があればいいのになともおもうけれど、大学生のひとりぐらしの部屋に若者ばかり集まって食べたり笑ったりしたこと、その些細な会話の断片とかを、ずいぶんと大人になってから不思議な気持ちで振り返ることができるならそれもいいなと思う。

 

次の日は7月最後の日だったから、友だちとサーティワンに行った。夕方に待ち合わせをして、ダブルを食べ終えた頃に話が盛り上がって、だんだんお腹が減って来たからコンビニでビビンバを買って、食べながらまだ話して。夜の22時半まで、かれこれ5時間も一緒にいた。大学生ばかりの下宿街だから、途中で通りがかるサークルの人たちが入れ代わり立ち代わりテーブルにやって来ては加わって、ゲストみたいだった。

できないことって緊張しちゃうし恐縮しちゃうよね、できないって思ってるせいで余計できなくなっちゃってるのも頭ではわかってるんだけど、わかってるからってうまくいかないよね、という話をした。いちばん長居していたゲストに、どうやったら緊張しないの、と訊いたけど、そもそも緊張した本番が少ないからなあと言われてしまう。

でもそれは、なんとなくわかる。わたしがレシピなしでもそれなりに美味しいものはつくれると思ってるのとおなじように、そんなにあがらずともソロを吹きこなしたり音楽を臆さずにできるひとというのもたくさんいて、おなじことでもつまずくひととすんなり通れるひとというのはいるのだ。なににひっかかるかがひとそれぞれなだけで、きっとどちらも些細なことなのだ、できるひとにとっては。

そして、その適性の差異自体に善悪や優劣はほんとうはないのだ、わたしたちに価値観や感情があるだけで。(こういうとき、三鷹で買った鉛筆に、「私たちは、生きていさえすればいいのよ。」という太宰の一節が刻まれているのをときどき思い出す。まあ彼は死んでしまったけれど。)

じぶんのできることの範囲内でなるたけ生きるほうが平穏なんだろうなといつも思う、思うけど、わたしはそれをおもしろくないと思ってしまうから、挑まずに生きるのは怖いと思ってしまうくらい弱いから、もうそれはしょうがないのだ。失敗したり恥かいたりしてもいいやと割り切って踏ん張ってみたり飛び込んでみたりしていくしかないし、失敗したり恥かいたりしても周りにとっての腫れ物やワレモノにならずに済むように日頃からよく笑って話して、親しみやすくいるのがせめてもの気遣いだ、と最近はおもっている。

 

わたしは不登校なんだけれど、サークルのおかげで人生のいろいろなことを考えたり気づいたり悩んだり得たり日々しているので、いま関わっているひとたちと食べているごはんや交わしている思いや言葉や、このじかんに、なにかとても意味があるような気がするので、もう少しここにいようと思っています。